時々、自分は何者なんだろうかと思うことがある。なにか肩書きがあるわけでもない、安定した職業に就いているわけでもない、作家にすらなれていない私は、さて人に対して何者であると答えるべきなんだろうか。
そんなことを考えたとき、私は悲恋堂に同様の質問をした。「お前ならどう答える?」と。悲恋堂の答えは簡潔だった。
「悲恋堂という古くさくて小汚い店の二代目店主ですと、答えますよ」
全く持って、それしかないだろうという答えだった。
十年ほど前、私は十年後の自分がどうなっているのだろうと考えて、夜中に発狂しそうになったことがある。夜、寝る前、ベッドの中で、暗闇に包まれながら考える。当時は私もまだ学生だったわけだが、学生を終えたときの自分がなにをしているのか、まるで想像も出来なかった。判らないと言うことは、それだけで漠然とした不安に繋がる。更なる進学をしているのか、それとも働いているのか、もしかしたら生きていないかも知れない。
実際に十年経ってみて、私は死ぬわけでもなく普通に生きていて、日々を働いて過ごしている。十年前には思い浮かべることも出来なかった光景だが、少なくとも悪夢に狂いそうになっていたことを考えれば、まあ、マシな結果なのではないだろうか。
こうして十年前に感じていた将来への不安は解消されたわけだが、今もまた新たな不安を覚えている。それは今から十年後への不安であった。人間、何年生きようともこの手のものからは、将来という未来からは逃げられないのだろう。十年前と何ら変わらず、私は今も時折夜中に叫びたくなってしまう。十年後、私はどうなっているんだろうかと。私が生きていたとして、親はどうだろうか? 兄姉は? 祖母は? 周りがどのように変化しているかは判らないし、思えば十年前には身内が今のような状態になるとは思ってもみなかったはずだ。そう考えれば、この十年にも色々あったのだろう。
従弟が不登校気味になったという話を聞いた。身内の例もあるから心配であるが、それほど重傷ではないらしい。不登校の理由は理解できなかったが、自尊心が高いのだろうと思っておこう。
将来に対する不安や怯えを放棄してしまった者と言えば、悲恋堂がそれに当たる。なにせ世捨て人だ。私より若い身なりでありながら、人生というものに対して見切りを付けるのが早すぎた。能力も実力もそれなりに高かったのに、店主は俗世間へ別れを告げた。曰く、それなりの力を持っていたからこそ、店主は自分の才能に諦めを付けることが出来たのだという。
「古い話になりますけど、小学校の頃、いえ、幼稚園の頃でも良いです。将来の夢って訊かれますよね」
いつか、店主はこのようなことを語ったことがある。
「小学生なら作文、幼稚園児なら絵かな? それに将来の自分を書く。野球選手になってたり、女の子はお花屋さんとかケーキ屋さん」
ありがちだが、子供の夢なんてそんなものだろう。
「私にはね、それがなかったんです。将来自分がなにをしているのか想像できなかったし、これになりたいというものも存在しなかった」
随分と夢のない子供である。
「中学生になっても、高校生になっても、それは見つからなかった。なにかをしている自分というものが、私には当て嵌まらなかったんですかね? 貴方みたいに創作活動をしている姿も思い浮かばなかったし、一般的なホワイトカラーとして働いている光景も想像できなかったんですよ」
だから、店主はあっさりと、自分の人生に見切りを付けた。
「私は世捨て人で、貴方は夢追い人。思えば、変な組み合わせですね」
私には夢がある。悲恋堂には夢がない。店主は夢に破れたわけではないから、夢追い人に対する軋轢がない。あるとすれば、それは純粋な憧れだけだろう。
「この際、貴方の夢でも良いんです。私はそれに便乗するから、貴方は私が生きている内に夢を叶えちゃってください。そして貴方がつかみ取った夢を、一欠片で良いから私に見せてください。差し当たっては、それで満足できると思うから」
是非そうしたいところである、とだけ答えておいた。
まあ、結局さ、将来は不安がいっぱいだよねって話ですよ。私は自分にはなんの才能も取り柄もないと思っていたし、今もそうだと思ってるから、特にそれが顕著でね。自虐的というよりは、私も自分の才覚に見切りを付けそうなときがあったからさ。天才という壁もあったしね。壁にヒビが入って崩れなかったら、私も人生辞めてたんだろうか。
ある程度方向性を定めて、ひたすら前に進んでいく人生を歩み始めてからは、上のような悪夢に悩まされることも少なくなったけど、それでも不安なものは不安だし、心配事は尽きないよね。今やってる仕事にしたところで、後何年続けられるのか……出版業界も、大分冷え込んでいますからね。将来についての考え、か。
そんなことを考えたとき、私は悲恋堂に同様の質問をした。「お前ならどう答える?」と。悲恋堂の答えは簡潔だった。
「悲恋堂という古くさくて小汚い店の二代目店主ですと、答えますよ」
全く持って、それしかないだろうという答えだった。
十年ほど前、私は十年後の自分がどうなっているのだろうと考えて、夜中に発狂しそうになったことがある。夜、寝る前、ベッドの中で、暗闇に包まれながら考える。当時は私もまだ学生だったわけだが、学生を終えたときの自分がなにをしているのか、まるで想像も出来なかった。判らないと言うことは、それだけで漠然とした不安に繋がる。更なる進学をしているのか、それとも働いているのか、もしかしたら生きていないかも知れない。
実際に十年経ってみて、私は死ぬわけでもなく普通に生きていて、日々を働いて過ごしている。十年前には思い浮かべることも出来なかった光景だが、少なくとも悪夢に狂いそうになっていたことを考えれば、まあ、マシな結果なのではないだろうか。
こうして十年前に感じていた将来への不安は解消されたわけだが、今もまた新たな不安を覚えている。それは今から十年後への不安であった。人間、何年生きようともこの手のものからは、将来という未来からは逃げられないのだろう。十年前と何ら変わらず、私は今も時折夜中に叫びたくなってしまう。十年後、私はどうなっているんだろうかと。私が生きていたとして、親はどうだろうか? 兄姉は? 祖母は? 周りがどのように変化しているかは判らないし、思えば十年前には身内が今のような状態になるとは思ってもみなかったはずだ。そう考えれば、この十年にも色々あったのだろう。
従弟が不登校気味になったという話を聞いた。身内の例もあるから心配であるが、それほど重傷ではないらしい。不登校の理由は理解できなかったが、自尊心が高いのだろうと思っておこう。
将来に対する不安や怯えを放棄してしまった者と言えば、悲恋堂がそれに当たる。なにせ世捨て人だ。私より若い身なりでありながら、人生というものに対して見切りを付けるのが早すぎた。能力も実力もそれなりに高かったのに、店主は俗世間へ別れを告げた。曰く、それなりの力を持っていたからこそ、店主は自分の才能に諦めを付けることが出来たのだという。
「古い話になりますけど、小学校の頃、いえ、幼稚園の頃でも良いです。将来の夢って訊かれますよね」
いつか、店主はこのようなことを語ったことがある。
「小学生なら作文、幼稚園児なら絵かな? それに将来の自分を書く。野球選手になってたり、女の子はお花屋さんとかケーキ屋さん」
ありがちだが、子供の夢なんてそんなものだろう。
「私にはね、それがなかったんです。将来自分がなにをしているのか想像できなかったし、これになりたいというものも存在しなかった」
随分と夢のない子供である。
「中学生になっても、高校生になっても、それは見つからなかった。なにかをしている自分というものが、私には当て嵌まらなかったんですかね? 貴方みたいに創作活動をしている姿も思い浮かばなかったし、一般的なホワイトカラーとして働いている光景も想像できなかったんですよ」
だから、店主はあっさりと、自分の人生に見切りを付けた。
「私は世捨て人で、貴方は夢追い人。思えば、変な組み合わせですね」
私には夢がある。悲恋堂には夢がない。店主は夢に破れたわけではないから、夢追い人に対する軋轢がない。あるとすれば、それは純粋な憧れだけだろう。
「この際、貴方の夢でも良いんです。私はそれに便乗するから、貴方は私が生きている内に夢を叶えちゃってください。そして貴方がつかみ取った夢を、一欠片で良いから私に見せてください。差し当たっては、それで満足できると思うから」
是非そうしたいところである、とだけ答えておいた。
まあ、結局さ、将来は不安がいっぱいだよねって話ですよ。私は自分にはなんの才能も取り柄もないと思っていたし、今もそうだと思ってるから、特にそれが顕著でね。自虐的というよりは、私も自分の才覚に見切りを付けそうなときがあったからさ。天才という壁もあったしね。壁にヒビが入って崩れなかったら、私も人生辞めてたんだろうか。
ある程度方向性を定めて、ひたすら前に進んでいく人生を歩み始めてからは、上のような悪夢に悩まされることも少なくなったけど、それでも不安なものは不安だし、心配事は尽きないよね。今やってる仕事にしたところで、後何年続けられるのか……出版業界も、大分冷え込んでいますからね。将来についての考え、か。
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