シェフ~三ツ星フードトラック始めました~
2015年3月23日 映画
日本橋のTOHOシネマズで「シェフ~三ツ星フードトラック始めました~」を観てきました。二日連続で同じ映画館に来た訳ですが、この映画は先週、先々週にも観ようと思って、雨で延期していた作品です。今日も雨がぱらついてたけど、昨日のうちにチケットは買ってましたから、これはもう行くしかないなと。
既に公開から3週間程度は経っている作品ですが、劇場内の人入りも良く、早期に打ち切られることもなく上映が続いているところ見ると、結構人気なんですかね?
あらすじについて簡単に触れると、ロサンゼルスの有名フランス料理屋で料理長を務めるシェフが、頑固で分からず屋のオーナーと対立し、自分の望む料理を作れない中、ふとした切欠で始めたツイッターから、人生を変えることになる……といった感じの話です。
ざっと説明すれば、有名な料理批評ブログを運営していた男に、オーナーの指示通り作った料理をこき下ろされたシェフが、その記事がツイッターで拡散されていると知って、自分もツイッターに登録するところから物語は始まっていきます。ジョン・ファヴロー演じるシェフ、カール・キャスパーは、料理を作ることを至上の喜びとし、結婚して妻子を持つも、家庭作りには失敗するなど、とにかくプロの料理人であることに誇りとプライドを持つキャラです。
予告編を見ると、オーナーと喧嘩してすぐにフードトラックを始めたような印象を受けるけど、実際にトラックを、移動屋台を始めるのは物語の後半に入ってからと結構遅い。しかも、元々は別れた女房が勧めていた話で、カールは乗り気じゃなかったんですね。
しかし、ブログの一件でプライドを傷付けられたと感じたカールは、登録したばかりのツイッターで批評家にリプライを送ってしまいます。個人的な内容を、個人にだけ送ったと思い込んだままに。当然、DMでもないカールの下品な反論は批評家によってRTされ、十万単位でフォロワーを持つ彼との間に檄が生じます。ネットでは彼らの対決をはやし立て始め、カールは料理で対抗しようと、彼に酷評されたのとは違う、全くの新作を用意しようとするのですが……それもまた、分からず屋のオーナーに止められ、逆に解雇されてしまいました。
結果、カールは店を追い出され、再び来店した批評家に出されたのは前回来たときと同じメニュー。批評家は酷評し、カールは逃げ出したと罵倒ツイートをしますが、それにぶち切れたカールは店に舞い戻り、批評家に罵声を浴びせる訳です。
けれど、このとき店に来ていた客の多くは、ネットの騒動を聞きつけた者ばかりで、つまりツイッターなどのSNSやツールに明るい人達でした。カールがキレて叫び声を上げる姿はたちまちネット動画としてYouTubeなどに公開され、カールは一躍時の人、正し仕事にはありつけない状態となってしまいました。要するに炎上した訳ですが、これはカールの無知から来る結果であり、決してツイッターを始めとしたSNSを悪くは描いていません。
YouTubeを始めとした動画を消すことは難しいという現代社会におけるイタチごっこについても分かりやすく説明されており、その辺りが非常に現代的な感覚で作られてるんだよね。カールはそれまで料理一筋で、SNSなどには触れたこともないような職人気質の人でした。息子が汚い、悪い言葉を使うことにも敏感で、YouTubeなどで知ったと言えば顔を顰めるなど、清廉とした人柄の持ち主で、それは彼が批評家に罵声を浴びせたとき、どこか無理をして、必死になって汚い言葉を考え、吐き出していたことからも見て取れます。
彼はブログやツイッターを始めとしたネットの影響で全てを失い、一度ならずツイッターをやめることを考えました。しかし、そんな彼を救ったのもまた、ツイッターだったのです。
別れた女房の元夫の援助という、何とも複雑な構図からフードトラックを入手したカールは、息子と、元の職場で一緒だったコックと共に移動屋台を始めます。予告ではキューバサンドイッチだけみたいな印象を受けますが、芋のフライや、テキサスに行ったときはテキサスBBQなど、伝統的な料理屋地元の食材なども多数取り入れ、メニューは豊富とは行かないまでも、充実していたように思えます。
そんなフードトラックの宣伝として活躍したのが、他でもないツイッター。そして、フェイスブックです。位置情報を登録することで今現在屋台がどこで販売しているかを世界中に伝え、写真をアップし、如何に楽しそうに屋台をやっているか、料理をしているかを見せていく。テレビに取り上げられた訳でも、雑誌に掲載された訳でもない。シェフの息子が投稿したツイートの一つ一つが、写真の一枚一枚が人を呼び、屋台を繁盛させていったのです。
シェフは言います。「俺の息子で、コックの見習い中なんだ。ツイッターはこいつがやってる」と。
ツイッターによって全てを失ったはずの男が、今やツイッターによって世界と繋がり、客を呼び、料理を作る喜びを取り戻していたのです。しかも、それを嬉しそうに訪れる客に語っていく。
そんなシーンを見たとき、私はこの作品がSNSを中心としたネット文化に対し、極めて好意的で、理解のある話だと感じました。日本では多分、こうは行かないでしょう。ツイッターは一部ネット住人からはバカッターと揶揄され、さながら炎上発生装置扱いで、既存のTVメディアや出版業界は、焦りからか、未だにネットを胡散臭い者扱いして下に見ています。
私がシェフという作品で驚いたのは、作中にTVを見るシーンや、新聞・雑誌を読むシーンが一切登場しないことです。小鳥が呟きを運ぶ姿は幾度となく描写されるけど、ネット以外の既存メディアが全く登場しないんですね。
たとえば批評家に罵声を浴びせて炎上したシーンにしても、昔の映画なら翌朝新聞や雑誌の三面記事にでも掲載されて「くそっ!」とでも言いながらグシャグシャにするか、TVでちょっと取り上げられて乱暴にリモコンで消すと言った、そんな描写になっていたことでしょう。それがこの作品では、批評家が批評した場は数十万ドルの価値があると言われる有名ブログで、晒されたのはツイッター。フェイスブックも登場するけど、とにかく全てがネットのSNSや動画サイトで完結してしまってるんです。
つまり、ネットでのありがちな失敗を、ネットで挽回してるんですね。そこには最初からネットに対する偏見や悪意がなく、ツールを好意的に取られているからこそ、出来たのだと思います。
そして、おそらく今の日本にそれは出来ないことだろうと。日本はネットに対する偏見が強いから、ドラマなんかを見てもネットは良くないものという前提から話作りを始めています。だから、きっと逆立ちしたってこんな内容の物語は作れないんです。
ただ、ツイッターを始めとしたSNSの有用性を理解し、この映画のように活用している人達もいます。それはたとえば秋葉原のお店とか、その辺りが顕著でしょう。秋葉原という街は一つの文化発信点であり、流行の生まれる場所でもあるけど、電気街という特性からか、ネットツールに対する抵抗感が非常に少ないんですね。
だから、店は積極的にツイッターやフェイスブックを宣伝媒体に使うし、それは老舗だって変わりません。私がよく行く秋葉原の天ぷら屋は昭和の時代から営業しているそうですが、ここは昨年の夏頃にアカウントを取得し、私はそれを通じてお店にお邪魔しました。初めて来店した際、ツイッターを見ましたと言ったときの女将さんの嬉しそうな顔は、上記の映画で息子がツイッターを管理していると誇らしげに、そして嬉しそうに伝えたシェフのそれにとても近いような気がしたのです。
料理や家族愛を通して分かる、ツイッターを始めとしたSNSや動画サイトの現在と将来性。そのことが非常によく伝わってくる映画であり、飲食店に限らず、何かお店や商売をやっている人に是非観て欲しい、そんなロードムービーでした。
シェフの物語は、カール・キャスパーが一度どん底に落ちて、そこから再起を図る話です。故にフードトラックを手に入れてから楽しい旅のスタートであり、それ以降は事件というほどの事件は何も起こりません。だから全体的に楽しく観られるし、話運びに安心感みたいのがあるんだよね。無理にドラマ性を付けないというか、たとえば屋台を初めてキューバサンドイッチが飛ぶように売れているとき、あそこでカールが売上を箱に仕舞うシーンが二度ほど登場します。
これが凡庸な話だと、売上を泥棒に取られるか、あるいはロスから駆けつけた同僚が裏切って売上を持ち逃げするか……なんて、ありがちなドラマを入れてきそうなものだけど、シェフにはそういったものが一切ないんだよね。ロスから駆けつけてきた同僚は、元の職場でスーシェフ、つまり、副料理長みたいな立場にまで昇進したというのに、カールがフードトラックを買ったと聞きつけたら、そこを辞めてマイアミまでやってきたのです。
「次の店に入ったら、呼んでくれる約束でしたよ」
「給料は出ないぞ?」
地位や賃金よりも友情を。尊敬するシェフの店で働きたい、お祝いに車の塗装をプレゼントする。こういう性格の男が、裏切るはずなんてないじゃないですか。
それもこれも、シェフ、カール・キャスパーの人となりが為せる技で、別れた女房と暮らしている息子も、どちらかと言えば父親と一緒にいる時間を大事にして、シェフとしての彼を尊敬しているフシがあります。だからこそ、一緒に屋台をやりたかったのでしょう。
カールは息子に言います。
「自分は良い夫、良い父親でもなかったが……料理が作れる」と。
息子がカールを尊敬しているのは正にその一点が大きく、親子の仲も、そして夫婦の仲も、料理が取り持ったと考えて良いでしょう。
親子愛、友情、料理をすること楽しさ。
それらを詰め込み、心が幸せで満腹になる。元気を出したい人に向けて。ごちそうさまでした。
既に公開から3週間程度は経っている作品ですが、劇場内の人入りも良く、早期に打ち切られることもなく上映が続いているところ見ると、結構人気なんですかね?
あらすじについて簡単に触れると、ロサンゼルスの有名フランス料理屋で料理長を務めるシェフが、頑固で分からず屋のオーナーと対立し、自分の望む料理を作れない中、ふとした切欠で始めたツイッターから、人生を変えることになる……といった感じの話です。
ざっと説明すれば、有名な料理批評ブログを運営していた男に、オーナーの指示通り作った料理をこき下ろされたシェフが、その記事がツイッターで拡散されていると知って、自分もツイッターに登録するところから物語は始まっていきます。ジョン・ファヴロー演じるシェフ、カール・キャスパーは、料理を作ることを至上の喜びとし、結婚して妻子を持つも、家庭作りには失敗するなど、とにかくプロの料理人であることに誇りとプライドを持つキャラです。
予告編を見ると、オーナーと喧嘩してすぐにフードトラックを始めたような印象を受けるけど、実際にトラックを、移動屋台を始めるのは物語の後半に入ってからと結構遅い。しかも、元々は別れた女房が勧めていた話で、カールは乗り気じゃなかったんですね。
しかし、ブログの一件でプライドを傷付けられたと感じたカールは、登録したばかりのツイッターで批評家にリプライを送ってしまいます。個人的な内容を、個人にだけ送ったと思い込んだままに。当然、DMでもないカールの下品な反論は批評家によってRTされ、十万単位でフォロワーを持つ彼との間に檄が生じます。ネットでは彼らの対決をはやし立て始め、カールは料理で対抗しようと、彼に酷評されたのとは違う、全くの新作を用意しようとするのですが……それもまた、分からず屋のオーナーに止められ、逆に解雇されてしまいました。
結果、カールは店を追い出され、再び来店した批評家に出されたのは前回来たときと同じメニュー。批評家は酷評し、カールは逃げ出したと罵倒ツイートをしますが、それにぶち切れたカールは店に舞い戻り、批評家に罵声を浴びせる訳です。
けれど、このとき店に来ていた客の多くは、ネットの騒動を聞きつけた者ばかりで、つまりツイッターなどのSNSやツールに明るい人達でした。カールがキレて叫び声を上げる姿はたちまちネット動画としてYouTubeなどに公開され、カールは一躍時の人、正し仕事にはありつけない状態となってしまいました。要するに炎上した訳ですが、これはカールの無知から来る結果であり、決してツイッターを始めとしたSNSを悪くは描いていません。
YouTubeを始めとした動画を消すことは難しいという現代社会におけるイタチごっこについても分かりやすく説明されており、その辺りが非常に現代的な感覚で作られてるんだよね。カールはそれまで料理一筋で、SNSなどには触れたこともないような職人気質の人でした。息子が汚い、悪い言葉を使うことにも敏感で、YouTubeなどで知ったと言えば顔を顰めるなど、清廉とした人柄の持ち主で、それは彼が批評家に罵声を浴びせたとき、どこか無理をして、必死になって汚い言葉を考え、吐き出していたことからも見て取れます。
彼はブログやツイッターを始めとしたネットの影響で全てを失い、一度ならずツイッターをやめることを考えました。しかし、そんな彼を救ったのもまた、ツイッターだったのです。
別れた女房の元夫の援助という、何とも複雑な構図からフードトラックを入手したカールは、息子と、元の職場で一緒だったコックと共に移動屋台を始めます。予告ではキューバサンドイッチだけみたいな印象を受けますが、芋のフライや、テキサスに行ったときはテキサスBBQなど、伝統的な料理屋地元の食材なども多数取り入れ、メニューは豊富とは行かないまでも、充実していたように思えます。
そんなフードトラックの宣伝として活躍したのが、他でもないツイッター。そして、フェイスブックです。位置情報を登録することで今現在屋台がどこで販売しているかを世界中に伝え、写真をアップし、如何に楽しそうに屋台をやっているか、料理をしているかを見せていく。テレビに取り上げられた訳でも、雑誌に掲載された訳でもない。シェフの息子が投稿したツイートの一つ一つが、写真の一枚一枚が人を呼び、屋台を繁盛させていったのです。
シェフは言います。「俺の息子で、コックの見習い中なんだ。ツイッターはこいつがやってる」と。
ツイッターによって全てを失ったはずの男が、今やツイッターによって世界と繋がり、客を呼び、料理を作る喜びを取り戻していたのです。しかも、それを嬉しそうに訪れる客に語っていく。
そんなシーンを見たとき、私はこの作品がSNSを中心としたネット文化に対し、極めて好意的で、理解のある話だと感じました。日本では多分、こうは行かないでしょう。ツイッターは一部ネット住人からはバカッターと揶揄され、さながら炎上発生装置扱いで、既存のTVメディアや出版業界は、焦りからか、未だにネットを胡散臭い者扱いして下に見ています。
私がシェフという作品で驚いたのは、作中にTVを見るシーンや、新聞・雑誌を読むシーンが一切登場しないことです。小鳥が呟きを運ぶ姿は幾度となく描写されるけど、ネット以外の既存メディアが全く登場しないんですね。
たとえば批評家に罵声を浴びせて炎上したシーンにしても、昔の映画なら翌朝新聞や雑誌の三面記事にでも掲載されて「くそっ!」とでも言いながらグシャグシャにするか、TVでちょっと取り上げられて乱暴にリモコンで消すと言った、そんな描写になっていたことでしょう。それがこの作品では、批評家が批評した場は数十万ドルの価値があると言われる有名ブログで、晒されたのはツイッター。フェイスブックも登場するけど、とにかく全てがネットのSNSや動画サイトで完結してしまってるんです。
つまり、ネットでのありがちな失敗を、ネットで挽回してるんですね。そこには最初からネットに対する偏見や悪意がなく、ツールを好意的に取られているからこそ、出来たのだと思います。
そして、おそらく今の日本にそれは出来ないことだろうと。日本はネットに対する偏見が強いから、ドラマなんかを見てもネットは良くないものという前提から話作りを始めています。だから、きっと逆立ちしたってこんな内容の物語は作れないんです。
ただ、ツイッターを始めとしたSNSの有用性を理解し、この映画のように活用している人達もいます。それはたとえば秋葉原のお店とか、その辺りが顕著でしょう。秋葉原という街は一つの文化発信点であり、流行の生まれる場所でもあるけど、電気街という特性からか、ネットツールに対する抵抗感が非常に少ないんですね。
だから、店は積極的にツイッターやフェイスブックを宣伝媒体に使うし、それは老舗だって変わりません。私がよく行く秋葉原の天ぷら屋は昭和の時代から営業しているそうですが、ここは昨年の夏頃にアカウントを取得し、私はそれを通じてお店にお邪魔しました。初めて来店した際、ツイッターを見ましたと言ったときの女将さんの嬉しそうな顔は、上記の映画で息子がツイッターを管理していると誇らしげに、そして嬉しそうに伝えたシェフのそれにとても近いような気がしたのです。
料理や家族愛を通して分かる、ツイッターを始めとしたSNSや動画サイトの現在と将来性。そのことが非常によく伝わってくる映画であり、飲食店に限らず、何かお店や商売をやっている人に是非観て欲しい、そんなロードムービーでした。
シェフの物語は、カール・キャスパーが一度どん底に落ちて、そこから再起を図る話です。故にフードトラックを手に入れてから楽しい旅のスタートであり、それ以降は事件というほどの事件は何も起こりません。だから全体的に楽しく観られるし、話運びに安心感みたいのがあるんだよね。無理にドラマ性を付けないというか、たとえば屋台を初めてキューバサンドイッチが飛ぶように売れているとき、あそこでカールが売上を箱に仕舞うシーンが二度ほど登場します。
これが凡庸な話だと、売上を泥棒に取られるか、あるいはロスから駆けつけた同僚が裏切って売上を持ち逃げするか……なんて、ありがちなドラマを入れてきそうなものだけど、シェフにはそういったものが一切ないんだよね。ロスから駆けつけてきた同僚は、元の職場でスーシェフ、つまり、副料理長みたいな立場にまで昇進したというのに、カールがフードトラックを買ったと聞きつけたら、そこを辞めてマイアミまでやってきたのです。
「次の店に入ったら、呼んでくれる約束でしたよ」
「給料は出ないぞ?」
地位や賃金よりも友情を。尊敬するシェフの店で働きたい、お祝いに車の塗装をプレゼントする。こういう性格の男が、裏切るはずなんてないじゃないですか。
それもこれも、シェフ、カール・キャスパーの人となりが為せる技で、別れた女房と暮らしている息子も、どちらかと言えば父親と一緒にいる時間を大事にして、シェフとしての彼を尊敬しているフシがあります。だからこそ、一緒に屋台をやりたかったのでしょう。
カールは息子に言います。
「自分は良い夫、良い父親でもなかったが……料理が作れる」と。
息子がカールを尊敬しているのは正にその一点が大きく、親子の仲も、そして夫婦の仲も、料理が取り持ったと考えて良いでしょう。
親子愛、友情、料理をすること楽しさ。
それらを詰め込み、心が幸せで満腹になる。元気を出したい人に向けて。ごちそうさまでした。
映画「サンバ」の感想
2015年1月6日 映画エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカシュ監督、オマール・シー主演の映画「サンバ」を観てきた。かの名作、「最強のふたり」でタッグを組んだ3人の新作ということだが、私はこの映画が公開されることを朝のラジオで知った。金曜日だけ番組をやっている映画好きの政治ジャーナリストが、新作紹介のコーナーで語っていたので、これは見に行かねばならないと思ったのである。
本来なら元旦に川崎で観る予定だったのだが、都合がつかなくて仕事始めの帰り、有楽町のTOHOシネマズシャンテで観ることになった。シネコンでないミニシアターは久しぶりだが、なかなかどうした、雰囲気のある場所だった。
私は「最強のふたり」という作品が好きだ。本国フランスでの公開は2011年、日本での公開は2012年の9月であるから、既に公開から2年半以上経っているが、あの劇場で観た際の鮮烈さは今でもハッキリと覚えている。私がアメリカ以外の洋画に食指を伸ばす切欠になった作品でもあり、フランス映画は勿論、インド映画なども見始めたのは、最強のふたりの影響が強い。
それまでの私にとって、フランス映画は学生時代に観たヌーヴェルヴァーグの印象が強く、具体的な作品名は避けるが、精神的で芸術的、陰気なアート系といったイメージが拭えなかった。無論、純粋な娯楽作品も多数存在するはずだし、そういったものが日本で公開されてないとも限らないが、私はそういった作品があることを知らなかったし、その偏見は未だに残っていたりもする。
しかし、如何にお国柄や国民性があると言っても、人間が作る以上、そこには個性の差があり、作風の違いがある。話は少し変わるが、インド映画だからといって全てが歌って踊るわけではなく、私が昨年鑑賞した「めぐり逢わせのお弁当」という作品は、歌はあっても踊りはなく、孤独感や切なさを全面に出した映画だった。要は、作り手と演者によって幾らでも多様なものを生み出すことが出来るし、作り出すことが出来るのだ。
そして、話は最強のふたりに戻るわけだが、この映画は私がそれまで抱いていたフランス映画への偏見や先入観をいい意味で打ち砕いてくれた作品だ。確か、シネコンのサイト経由で公式サイトに行ったのが最初だったと思うが、予告編を見て痺れた。これは私が今まで観てきた、知っていたフランス映画とは違うものだと、ひと目で気付かせてくれたのだから。
最強のふたりとて単純な話ではなく、娯楽作品と捉えるにはテーマが重く、人によっては芸術性の高い作品だと評するかもしれない。個々人の感想や感慨は人それぞれとしか言い様がないものの、私はあの映画を娯楽作品としても十二分に評価出来るものと考えている。予告編を観たときのワクワクと興奮、「生きることへの活力」が、映画本編にありありと現れていたからだ。故にあの映画は楽しくて面白く、そして感動が出来るのだろう。
そういったことを踏まえた上で、やっと「サンバ」について書こうと思うのだが……私はこの映画を観るにあたって、当然ながら公式サイトをチェックしたし、予告編についても観た。しかし、それ以前に前述のラジオにおける紹介が私の頭には強く残っており、それによるとこの映画はフランスにおける移民問題と燃え尽き症候群を扱った作品だ、ということだ。前者はフランスにおけるお国の問題という奴だが、では、後者はなにか?
朝方の忙しい時間帯に聞いていたので正確ではないかもしれないが、エリック・トレダノかオリヴィエ・ナカシュ、あるいはその両監督は最強のふたりを世に送り出して以降、まさに燃え尽き症候群だったというのだ。最強のふたりは国内でもセザール賞に多数ノミネートし、主演男優賞ではオマール・シーが受賞、国外でも日本アカデミー賞をはじめ、多数の賞にノミネートしては、受賞してきた。名作や傑作という評価は、極めて正しいものであり、監督たちの名声は頂点に達したことは疑いようもない。
だが、名作や傑作というのは現役の作家や創作者にとって必ずしもいいことばかりではない。これが遺作なら最後の最後に素晴らしい物を作ったと、安心して眠りにつくことが出来るのだろうが、現役で作品作りを続ける者にとっては、自分の作品そのものが大きなハードルとなって聳え立ち、同時に重い足枷となってしまう。最強のふたりを超える作品を作ることは出来るのか? これ以上の作品は自分の中にあるのか? なまじ最強のふたりが文字通りの最強だっただけに、その苦労や葛藤は想像に難くない。むしろ、当然のことと言えるだろう。
数日前、映画.comに掲載されたニュース記事だが、ジム・キャリーが「最強のふたり」米リメイク版出演を辞退していたというものがある。
ジム・キャリーはゴールデングローブ賞の受賞経験もある俳優で、受賞作でもあるトゥルーマン・ショーの主演が世間的には有名だろうか? そんな彼が、最強のふたりのリメイク版出演を辞退した理由として、記事の中でこんなことが書かれている。
アメリカのリメイク版がどうなるのかは分からないし、富豪役での出演が決まっているコリン・ファースの演技にも興味はあるが、それはともかくとしても、ジム・キャリーの発言は単なる出演辞退の説明以上に重たいものがあるだろう。
最強のふたりは完璧な作品なのだ。対外的に見ても、役者が出演を辞退してしまう程に原典が完成されていて、リメイク版が越えなければいけないハードルは、既に山ほどの高さになっているはずだ。それだけに役者たちも名作の出演には慎重になる。元がいいだけに、場合によっては自分のキャリアに傷が付いてしまうからだ。
だが、こういった事情は何もリメイク版に携わる者達にだけある訳じゃない。前述のように原典を作った監督自身が、最強のふたりという作品に囚われ、あるいは全てを出し切って、燃え尽き症候群になっていたのだ。主演のオマール・シーはどうだったのか、それも気になるところだが、名作や傑作を作り出した創作者たちにとって、こうした躓きや、先に勧めないことに対する閉塞感は珍しくないのかもしれない。
故に私は、この「サンバ」という映画を、最初から監督のリハビリ作品として捉えていた。最強のふたりで全てを出し切った男たちがもう一度集まり、なにか新しい映画を撮ってみようと、そんな感じだったのだろう。そこには斬新さや、核心的なものなどあるはずはないが、最強のふたりで燃え尽きたと知っていれば、何ら不思議はない話なのだ。
しかし、映画を売る側としてはそうも言っていられない。興行収入を稼がないといけないし、そのためには宣伝をしていかなければいけない。前評判を良くする意味でも、配給元や広報としては最強のふたりの再来であることをアピールするのは当然の選択だったのだろう。事実、この映画が最強のふたりの監督によるものであり、主演もまたオマール・シーであることに変わりはないのだから。
公開中の作品だから深いネタバレは避けることにするが、映画としては全体的に暗く、シリアスな内容だ。移民問題や燃え尽き症候群を扱っているのだから当たり前だが、時折クスリとしてしまう小ネタを除けば、作品自体は深刻なテーマに適度な軽さを加えつつ、重苦しく仕上げていると言える。
予告編だけ観れば、オマール・シー演じる主人公のサンバが、そのハチャメチャな性格で移民問題に対して果敢なアタックを行い、そのダンスのサンバの如き情熱で燃え尽き症候群のヒロインがもう一度燃え上がる……! みたいな内容を想像しがちだが、ハッキリ言ってそんなことはない。うっかりでビザの更新を忘れた、などと公式サイトや劇場、映画紹介サイトのあらすじには書かれているが、そんなコメディタッチな言い回しが通用するほど甘い話ではなく、最強の笑顔で人助け!? などと書かれてもいるが、実際のところサンバの暮らしぶりは笑顔で人を助けるほど余裕があるものではなく、もっと言えばキツいものがあった。ヒロインに対してはそうであったかもしれないが、サンバはとにかく余裕のないキャラクターなのだ。国外退去を迫られ、日々の暮らしすらままならず、しかし、それでも国の家族に仕送りをしなくてはいけないなど、精神的にはかなり追い詰められた、重いものを背負った主人公と言える。
最強のふたりは障害者と介護をテーマに扱った作品で、ノンフィクション、つまり実話を元にしているから、こちらはこちらで軽い話であるはずもないのだが、オマール・シーが演じた主人公のドリスは、スラム街の出身でありながらも陽気で明るかったし、同じく主人公で、フランソワ・クリュゼが演じたフィリップは障害者だが、知的な教養人だった。
そしてこれは重要な事だと思うが、最強のふたりのフィリップは大富豪であり、障害によるハンディキャップはあるものの、食うに困るほどの困窮とは無縁で、不便はあってもそれが直接的な危機には結びつかない。フィリップにすれば堪ったものではないかもしれないが、彼は大富豪だからこその余裕があった。
そして、そんな大富豪のお屋敷で介護人をやることになったドリスもまた、日々の暮らしには余裕が生まれる。それまで失業保険で食い繋いできた男が、いきなりお屋敷住まいだ。仕事は大変だが部屋は広いし、食事も料理人が作った結構いいものが食べられる。ドリスにあてがわれた部屋が、スラム街にある彼の実家よりも広いのではないかと思ってしまう程には、良い暮らしをしているのだ。
しかも、話の舞台はフィリップの邸宅と、彼が行き来する金持ちの社交場がメインだ。それは華やかな世界であり、時折スラム街とあくせく働く人々との対比もあるが、そこまで深刻なものとして映らないのが実情だろう。何せ、スラム街出身であるはずのドリスは、意外と簡単にフィリップの世界に順応し、溶け込んで、教養人としての彼から学び、自身を成長させていくのだから。
金持ち故の余裕というものは、主人公の片割れが金持ちである以上、どうしても生まれてしまうものだ。たとえば、2007年にアメリカで公開された「最高の人生の見つけ方」という映画は、余命6ヶ月を宣告された二人の男が死ぬ前にやり残したことを行うため、世界へ旅立ち冒険を始める、という話だが、これだって二人の内の一人、ジャック・ニコルソンが演じたエドワードが事業家として成功していた、金持ちだったから出来たことだ。
話を最強のふたりに戻すが、つまるところ最強のふたりという作品は、全体的に綺麗かつ華やかなのだ。金持ちの華やかな世界に、粗野で無学者の、スラム街出身のゴロツキが混ざったからこそ生まれるコメディであり、感動ストーリーだった。しかし、それはドリスというゴロツキを受け入れる側に、それを出来るだけの余裕があったからこそ、成立したのだとも言える。
サンバは最強のふたりで観せた華やかなフランスとは全く違う、陰気でジメっとしたフランス社会を描いた映画だ。主人公のサンバは移民者として迫害され、日雇いの仕事すら満足に付けないこともあるなど、過酷な状況に身を置かれている。これもまたフランスという国の実情であり、花の都パリの現実なのだ。しかし、それだけに、最強のふたりのような映画を観たいと思って劇場に出かけた人は、その薄暗い話にショックを受けるのかもしれない。移民問題という日本人には馴染みのないテーマも、受け入れがたいものがあるだろう。
映画として考えたとき、サンバは決してつまらない作品ではない。いくつかのテーマとお国の事情に対して、映画という媒体で真剣に取り組んだ結果の一つだろうと、そう受け止めることができるからだ。けれど、それが娯楽作品の映画として楽しいのか、面白いのか? と聞かれたとき、私は首を横に振るだろう。決して楽しいものではないし、面白くもないだろうと。そういうネタを扱っていないのだから、それは仕方のないことだ。
最強のふたりという名作の後に撮られたリハビリ的映画。そう考えれば、「まあ、こんなものだろう」という気もするし、最初からそういう考えでいけば、満足はしないかもしれないが、不満も少ないのが私の感想といったところか。
ただ、このサンバという映画に対して最強のふたりみたいな映画じゃなかったからつまらない、という人がいるのだとしたら、それは映画会社の宣伝を真に受けすぎというか、馬鹿正直に受け止めすぎていると言わざるをえない。名作や傑作はそう簡単に生まれるものではないし、たとえ天才であっても、連続してそれを成し遂げることは至難の業だろう。最強のふたりのような作品が観たいのであれば、最強のふたりをもう一度観ればいいのであって、それを求めてサンバを観に行くのだとすれば、その人もまた、名作に囚われている人ということになってしまう。
監督と主演が同じであるのだから期待しない方が無理だとも思うが、この映画は決して陽気で明るい作品ではなかった。燃え尽きたり、先に進めなくなった人たちがもがき苦しみ、それでも前に進もうと試みた、そんな映画なのだから。
本来なら元旦に川崎で観る予定だったのだが、都合がつかなくて仕事始めの帰り、有楽町のTOHOシネマズシャンテで観ることになった。シネコンでないミニシアターは久しぶりだが、なかなかどうした、雰囲気のある場所だった。
私は「最強のふたり」という作品が好きだ。本国フランスでの公開は2011年、日本での公開は2012年の9月であるから、既に公開から2年半以上経っているが、あの劇場で観た際の鮮烈さは今でもハッキリと覚えている。私がアメリカ以外の洋画に食指を伸ばす切欠になった作品でもあり、フランス映画は勿論、インド映画なども見始めたのは、最強のふたりの影響が強い。
それまでの私にとって、フランス映画は学生時代に観たヌーヴェルヴァーグの印象が強く、具体的な作品名は避けるが、精神的で芸術的、陰気なアート系といったイメージが拭えなかった。無論、純粋な娯楽作品も多数存在するはずだし、そういったものが日本で公開されてないとも限らないが、私はそういった作品があることを知らなかったし、その偏見は未だに残っていたりもする。
しかし、如何にお国柄や国民性があると言っても、人間が作る以上、そこには個性の差があり、作風の違いがある。話は少し変わるが、インド映画だからといって全てが歌って踊るわけではなく、私が昨年鑑賞した「めぐり逢わせのお弁当」という作品は、歌はあっても踊りはなく、孤独感や切なさを全面に出した映画だった。要は、作り手と演者によって幾らでも多様なものを生み出すことが出来るし、作り出すことが出来るのだ。
そして、話は最強のふたりに戻るわけだが、この映画は私がそれまで抱いていたフランス映画への偏見や先入観をいい意味で打ち砕いてくれた作品だ。確か、シネコンのサイト経由で公式サイトに行ったのが最初だったと思うが、予告編を見て痺れた。これは私が今まで観てきた、知っていたフランス映画とは違うものだと、ひと目で気付かせてくれたのだから。
最強のふたりとて単純な話ではなく、娯楽作品と捉えるにはテーマが重く、人によっては芸術性の高い作品だと評するかもしれない。個々人の感想や感慨は人それぞれとしか言い様がないものの、私はあの映画を娯楽作品としても十二分に評価出来るものと考えている。予告編を観たときのワクワクと興奮、「生きることへの活力」が、映画本編にありありと現れていたからだ。故にあの映画は楽しくて面白く、そして感動が出来るのだろう。
そういったことを踏まえた上で、やっと「サンバ」について書こうと思うのだが……私はこの映画を観るにあたって、当然ながら公式サイトをチェックしたし、予告編についても観た。しかし、それ以前に前述のラジオにおける紹介が私の頭には強く残っており、それによるとこの映画はフランスにおける移民問題と燃え尽き症候群を扱った作品だ、ということだ。前者はフランスにおけるお国の問題という奴だが、では、後者はなにか?
朝方の忙しい時間帯に聞いていたので正確ではないかもしれないが、エリック・トレダノかオリヴィエ・ナカシュ、あるいはその両監督は最強のふたりを世に送り出して以降、まさに燃え尽き症候群だったというのだ。最強のふたりは国内でもセザール賞に多数ノミネートし、主演男優賞ではオマール・シーが受賞、国外でも日本アカデミー賞をはじめ、多数の賞にノミネートしては、受賞してきた。名作や傑作という評価は、極めて正しいものであり、監督たちの名声は頂点に達したことは疑いようもない。
だが、名作や傑作というのは現役の作家や創作者にとって必ずしもいいことばかりではない。これが遺作なら最後の最後に素晴らしい物を作ったと、安心して眠りにつくことが出来るのだろうが、現役で作品作りを続ける者にとっては、自分の作品そのものが大きなハードルとなって聳え立ち、同時に重い足枷となってしまう。最強のふたりを超える作品を作ることは出来るのか? これ以上の作品は自分の中にあるのか? なまじ最強のふたりが文字通りの最強だっただけに、その苦労や葛藤は想像に難くない。むしろ、当然のことと言えるだろう。
数日前、映画.comに掲載されたニュース記事だが、ジム・キャリーが「最強のふたり」米リメイク版出演を辞退していたというものがある。
ジム・キャリーはゴールデングローブ賞の受賞経験もある俳優で、受賞作でもあるトゥルーマン・ショーの主演が世間的には有名だろうか? そんな彼が、最強のふたりのリメイク版出演を辞退した理由として、記事の中でこんなことが書かれている。
URL:http://eiga.com/news/20150102/2/この説明が作品に参加したくないことに対する体のいい言い訳か、あるいは本心なのかは定かで無いが、作品を持ち上げた上で自分を謙遜している様は謙虚だし、作品ファンとしても好感が持てる。
オファーされた役柄は明らかにしなかったが、キャリーは「『最強のふたり』は完璧な作品だから、僕が出演することで、ダメにしたくなかったんだ」と説明した。
アメリカのリメイク版がどうなるのかは分からないし、富豪役での出演が決まっているコリン・ファースの演技にも興味はあるが、それはともかくとしても、ジム・キャリーの発言は単なる出演辞退の説明以上に重たいものがあるだろう。
最強のふたりは完璧な作品なのだ。対外的に見ても、役者が出演を辞退してしまう程に原典が完成されていて、リメイク版が越えなければいけないハードルは、既に山ほどの高さになっているはずだ。それだけに役者たちも名作の出演には慎重になる。元がいいだけに、場合によっては自分のキャリアに傷が付いてしまうからだ。
だが、こういった事情は何もリメイク版に携わる者達にだけある訳じゃない。前述のように原典を作った監督自身が、最強のふたりという作品に囚われ、あるいは全てを出し切って、燃え尽き症候群になっていたのだ。主演のオマール・シーはどうだったのか、それも気になるところだが、名作や傑作を作り出した創作者たちにとって、こうした躓きや、先に勧めないことに対する閉塞感は珍しくないのかもしれない。
故に私は、この「サンバ」という映画を、最初から監督のリハビリ作品として捉えていた。最強のふたりで全てを出し切った男たちがもう一度集まり、なにか新しい映画を撮ってみようと、そんな感じだったのだろう。そこには斬新さや、核心的なものなどあるはずはないが、最強のふたりで燃え尽きたと知っていれば、何ら不思議はない話なのだ。
しかし、映画を売る側としてはそうも言っていられない。興行収入を稼がないといけないし、そのためには宣伝をしていかなければいけない。前評判を良くする意味でも、配給元や広報としては最強のふたりの再来であることをアピールするのは当然の選択だったのだろう。事実、この映画が最強のふたりの監督によるものであり、主演もまたオマール・シーであることに変わりはないのだから。
公開中の作品だから深いネタバレは避けることにするが、映画としては全体的に暗く、シリアスな内容だ。移民問題や燃え尽き症候群を扱っているのだから当たり前だが、時折クスリとしてしまう小ネタを除けば、作品自体は深刻なテーマに適度な軽さを加えつつ、重苦しく仕上げていると言える。
予告編だけ観れば、オマール・シー演じる主人公のサンバが、そのハチャメチャな性格で移民問題に対して果敢なアタックを行い、そのダンスのサンバの如き情熱で燃え尽き症候群のヒロインがもう一度燃え上がる……! みたいな内容を想像しがちだが、ハッキリ言ってそんなことはない。うっかりでビザの更新を忘れた、などと公式サイトや劇場、映画紹介サイトのあらすじには書かれているが、そんなコメディタッチな言い回しが通用するほど甘い話ではなく、最強の笑顔で人助け!? などと書かれてもいるが、実際のところサンバの暮らしぶりは笑顔で人を助けるほど余裕があるものではなく、もっと言えばキツいものがあった。ヒロインに対してはそうであったかもしれないが、サンバはとにかく余裕のないキャラクターなのだ。国外退去を迫られ、日々の暮らしすらままならず、しかし、それでも国の家族に仕送りをしなくてはいけないなど、精神的にはかなり追い詰められた、重いものを背負った主人公と言える。
最強のふたりは障害者と介護をテーマに扱った作品で、ノンフィクション、つまり実話を元にしているから、こちらはこちらで軽い話であるはずもないのだが、オマール・シーが演じた主人公のドリスは、スラム街の出身でありながらも陽気で明るかったし、同じく主人公で、フランソワ・クリュゼが演じたフィリップは障害者だが、知的な教養人だった。
そしてこれは重要な事だと思うが、最強のふたりのフィリップは大富豪であり、障害によるハンディキャップはあるものの、食うに困るほどの困窮とは無縁で、不便はあってもそれが直接的な危機には結びつかない。フィリップにすれば堪ったものではないかもしれないが、彼は大富豪だからこその余裕があった。
そして、そんな大富豪のお屋敷で介護人をやることになったドリスもまた、日々の暮らしには余裕が生まれる。それまで失業保険で食い繋いできた男が、いきなりお屋敷住まいだ。仕事は大変だが部屋は広いし、食事も料理人が作った結構いいものが食べられる。ドリスにあてがわれた部屋が、スラム街にある彼の実家よりも広いのではないかと思ってしまう程には、良い暮らしをしているのだ。
しかも、話の舞台はフィリップの邸宅と、彼が行き来する金持ちの社交場がメインだ。それは華やかな世界であり、時折スラム街とあくせく働く人々との対比もあるが、そこまで深刻なものとして映らないのが実情だろう。何せ、スラム街出身であるはずのドリスは、意外と簡単にフィリップの世界に順応し、溶け込んで、教養人としての彼から学び、自身を成長させていくのだから。
金持ち故の余裕というものは、主人公の片割れが金持ちである以上、どうしても生まれてしまうものだ。たとえば、2007年にアメリカで公開された「最高の人生の見つけ方」という映画は、余命6ヶ月を宣告された二人の男が死ぬ前にやり残したことを行うため、世界へ旅立ち冒険を始める、という話だが、これだって二人の内の一人、ジャック・ニコルソンが演じたエドワードが事業家として成功していた、金持ちだったから出来たことだ。
話を最強のふたりに戻すが、つまるところ最強のふたりという作品は、全体的に綺麗かつ華やかなのだ。金持ちの華やかな世界に、粗野で無学者の、スラム街出身のゴロツキが混ざったからこそ生まれるコメディであり、感動ストーリーだった。しかし、それはドリスというゴロツキを受け入れる側に、それを出来るだけの余裕があったからこそ、成立したのだとも言える。
サンバは最強のふたりで観せた華やかなフランスとは全く違う、陰気でジメっとしたフランス社会を描いた映画だ。主人公のサンバは移民者として迫害され、日雇いの仕事すら満足に付けないこともあるなど、過酷な状況に身を置かれている。これもまたフランスという国の実情であり、花の都パリの現実なのだ。しかし、それだけに、最強のふたりのような映画を観たいと思って劇場に出かけた人は、その薄暗い話にショックを受けるのかもしれない。移民問題という日本人には馴染みのないテーマも、受け入れがたいものがあるだろう。
映画として考えたとき、サンバは決してつまらない作品ではない。いくつかのテーマとお国の事情に対して、映画という媒体で真剣に取り組んだ結果の一つだろうと、そう受け止めることができるからだ。けれど、それが娯楽作品の映画として楽しいのか、面白いのか? と聞かれたとき、私は首を横に振るだろう。決して楽しいものではないし、面白くもないだろうと。そういうネタを扱っていないのだから、それは仕方のないことだ。
最強のふたりという名作の後に撮られたリハビリ的映画。そう考えれば、「まあ、こんなものだろう」という気もするし、最初からそういう考えでいけば、満足はしないかもしれないが、不満も少ないのが私の感想といったところか。
ただ、このサンバという映画に対して最強のふたりみたいな映画じゃなかったからつまらない、という人がいるのだとしたら、それは映画会社の宣伝を真に受けすぎというか、馬鹿正直に受け止めすぎていると言わざるをえない。名作や傑作はそう簡単に生まれるものではないし、たとえ天才であっても、連続してそれを成し遂げることは至難の業だろう。最強のふたりのような作品が観たいのであれば、最強のふたりをもう一度観ればいいのであって、それを求めてサンバを観に行くのだとすれば、その人もまた、名作に囚われている人ということになってしまう。
監督と主演が同じであるのだから期待しない方が無理だとも思うが、この映画は決して陽気で明るい作品ではなかった。燃え尽きたり、先に進めなくなった人たちがもがき苦しみ、それでも前に進もうと試みた、そんな映画なのだから。
ましろ色シンフォニー Vol.2 [Blu-ray]
2012年2月22日 映画
気付けばもう2巻が発売ということで、AT-X SHOPにて注文していたものが届きました。1巻のときと比べ、特にフラゲ情報などが入って来なかったのですが、それだけ苦戦しているということなんですかね。ケースの絵柄は本作のメインヒロインになってしまったみう先輩ですが、パッケージのジャケットイラストはアンジェになっています。このイラスト、既に3巻まで発表されており、次はケースがアンジェで、中が紗凪らしい。桜乃は残すところケースだけになりましたが、一体どこに配置されるのか。そもそも、この作品は5人しかヒロインがいないわけだから、どうしたって6巻目が余るんだよね。ぱんにゃは見ての通り、2巻で使ってるし。
私はTV放送時との作画の違いをあまり気にする方ではなく、ブログ等で修正比較が上がっているのを見て、初めて気付いたりします。流石にエロ等のあからさまな物は、それが目当てな部分もありますから分かりますけど、ましろ色のアニメは元よりエロ描写とかそんなにありませんから、今回は結構落ち着いた内容になったのかな。主に愛理との和解が描かれたわけですけど、見直してみるとここぞと言う所でみう先輩が出てきていますし、制作側の言うところのミスリードが沢山あったんなだなぁと。
まあ、私は桜乃メインで観ている人ですから、別に愛理はどうでもいいのだけど、流石に彼女との和解が中心に進むだけあって、可愛いシーンが多いのは事実だと思う。どてらを着込んでいるヒロインは別に珍しくないし、古くはKanonの名雪なんかがそうですけど、愛理は愛理でよく似合っているね。優等生で美人という設定だけあって、ギャップが楽しめるとでも言うんですか? 愛理とて元お嬢様であるのは事実だけど、それが今では主人公以下の庶民的な生活をしているわけだから、結構面白いよね。直接的な描写はなかったけど、なにかしらのバイトもしているらしいし。みう先輩といい、バイトをしているキャラ替わりと多い作品だ。アンジェの仕事はバイトじゃないけど、色々働いているというのは事実だし、桜乃の場合は兄と助け合ってはいるものの、買い物や家事がある。そう考えると、登場ヒロインのスペックがそれなりに高い作品なのかも知れない。依存はしても自活は出来るというか、主人公に対する精神的な自立が必要あるかはともかく、比較的一人でなんでもできるキャラが揃っている気がする。弱点はあるにせよ、だけど。
今回の特典映像はキャラソンのミュージッククリップということで、愛理と桜乃が収録されています。PV用に新しく作った、というわけではなく、あくまで本編映像から各ヒロインのシーンを抜き出して再編集したものなんだけど、似たようなものにヨスガノソラのBDに収録されたツナグキズナのPVがありますね。あれは確か公式HPでも公開されたと思うけど、まあ、あれに近い感じの奴です。違いがあるとすれば、あのPVが放送済みの話及び、放送予定の話からちょこっとという感じだったのに対し、ましろ色のミュージッククリップは、最終話近くの映像まで使っています。放送終了後に作ったのだから当たり前だけど、これは結構嬉しいサプライズな気がする。
お歌のほどは、声優さんですからそれ程でもないといった感じなのだけど、とにかく映像に引き込まれてしまうね。特に桜乃の方は、出番が少ないと言われ続けた彼女にも、こんな可愛いシーンが沢山あったのかと実感させてくれる作りになっていますし、愛理にしてもそれは同じです。まあ、それだけに桜乃の扱いが良くなかったことへの不快感も募ってしまうのだけど、今更言っても仕方ないか。キャラソンがCDとして発売されているからなのか、ミュージッククリップといってもフルコーラスで入っているわけではなく、ワンコーラスだけでした。あるいは編集が難しかったのかも知れないけど、折角ならフルで入れて欲しかったです。桜乃にそれだけのシーンがあるかという問題も、あるでんしょうけど。確かに可愛い桜乃がいっぱい観られたけど、最終話付近の映像まで使っているということは、出番があまり無いことへの裏返しなのではないか……と思わなくもない。
AT-X SHOPでは3巻まで前金で注文していますし、その後はとらのあなで買うために予約も済ませてありますから、ましろ色のBDはこのまま揃えていこうと思います。そういや、先日の発表でAT-X SHOPは従来の加入者特典である30%引き+送料無料を止めて、15%OFF+購入金額の20%ポイント付与+送料無料に代えてしまうらしい。ぶっちゃけ、amazonより安く買えることに意味があったのに、これをなくしてしまってはもう利用する理由がありませんね。BD-BOXですら、30%OFFで買えたから重宝していたのに。まったく、残念でなりません。
私はTV放送時との作画の違いをあまり気にする方ではなく、ブログ等で修正比較が上がっているのを見て、初めて気付いたりします。流石にエロ等のあからさまな物は、それが目当てな部分もありますから分かりますけど、ましろ色のアニメは元よりエロ描写とかそんなにありませんから、今回は結構落ち着いた内容になったのかな。主に愛理との和解が描かれたわけですけど、見直してみるとここぞと言う所でみう先輩が出てきていますし、制作側の言うところのミスリードが沢山あったんなだなぁと。
まあ、私は桜乃メインで観ている人ですから、別に愛理はどうでもいいのだけど、流石に彼女との和解が中心に進むだけあって、可愛いシーンが多いのは事実だと思う。どてらを着込んでいるヒロインは別に珍しくないし、古くはKanonの名雪なんかがそうですけど、愛理は愛理でよく似合っているね。優等生で美人という設定だけあって、ギャップが楽しめるとでも言うんですか? 愛理とて元お嬢様であるのは事実だけど、それが今では主人公以下の庶民的な生活をしているわけだから、結構面白いよね。直接的な描写はなかったけど、なにかしらのバイトもしているらしいし。みう先輩といい、バイトをしているキャラ替わりと多い作品だ。アンジェの仕事はバイトじゃないけど、色々働いているというのは事実だし、桜乃の場合は兄と助け合ってはいるものの、買い物や家事がある。そう考えると、登場ヒロインのスペックがそれなりに高い作品なのかも知れない。依存はしても自活は出来るというか、主人公に対する精神的な自立が必要あるかはともかく、比較的一人でなんでもできるキャラが揃っている気がする。弱点はあるにせよ、だけど。
今回の特典映像はキャラソンのミュージッククリップということで、愛理と桜乃が収録されています。PV用に新しく作った、というわけではなく、あくまで本編映像から各ヒロインのシーンを抜き出して再編集したものなんだけど、似たようなものにヨスガノソラのBDに収録されたツナグキズナのPVがありますね。あれは確か公式HPでも公開されたと思うけど、まあ、あれに近い感じの奴です。違いがあるとすれば、あのPVが放送済みの話及び、放送予定の話からちょこっとという感じだったのに対し、ましろ色のミュージッククリップは、最終話近くの映像まで使っています。放送終了後に作ったのだから当たり前だけど、これは結構嬉しいサプライズな気がする。
お歌のほどは、声優さんですからそれ程でもないといった感じなのだけど、とにかく映像に引き込まれてしまうね。特に桜乃の方は、出番が少ないと言われ続けた彼女にも、こんな可愛いシーンが沢山あったのかと実感させてくれる作りになっていますし、愛理にしてもそれは同じです。まあ、それだけに桜乃の扱いが良くなかったことへの不快感も募ってしまうのだけど、今更言っても仕方ないか。キャラソンがCDとして発売されているからなのか、ミュージッククリップといってもフルコーラスで入っているわけではなく、ワンコーラスだけでした。あるいは編集が難しかったのかも知れないけど、折角ならフルで入れて欲しかったです。桜乃にそれだけのシーンがあるかという問題も、あるでんしょうけど。確かに可愛い桜乃がいっぱい観られたけど、最終話付近の映像まで使っているということは、出番があまり無いことへの裏返しなのではないか……と思わなくもない。
AT-X SHOPでは3巻まで前金で注文していますし、その後はとらのあなで買うために予約も済ませてありますから、ましろ色のBDはこのまま揃えていこうと思います。そういや、先日の発表でAT-X SHOPは従来の加入者特典である30%引き+送料無料を止めて、15%OFF+購入金額の20%ポイント付与+送料無料に代えてしまうらしい。ぶっちゃけ、amazonより安く買えることに意味があったのに、これをなくしてしまってはもう利用する理由がありませんね。BD-BOXですら、30%OFFで買えたから重宝していたのに。まったく、残念でなりません。
最高の人生の見つけ方
2010年11月14日 映画
冬コミの原稿を書いている最中に、なんとなくつけた夜のロードショー。気づけば惹き込まれるかのように画面を見つめていた。一言でいえば、まあ、ズルイ作品だと思う。死という究極のテーマを殊更明るく書いて、それに向きあう二人の男の最期の時をハチャメチャながらもテンポよく、丁寧に描いていたと思う。泣きはしなかったけど、なんだろうね、このほろ苦さは。これを羨ましいと思うのか、それとも悲しいと感じるのか、簡単な内容であるくせして、そこある深みはやっぱりテーマのなせる技なんだろうか。名優二人の共演で、演技の上ではあるにせよその掛け合いは本当に見事だった。
話は近頃体調を悪くして病院で検査を受けていた自動車修理工と、その病院の経営者で突然体調が悪くなった二人の初老男性が相部屋になったことから始まる。下町の一般庶民と大統領さえ一目おく大富豪の出会いは、第一印象こそ最悪であったが、対照的な二人はいつしか交流を重ね、死期が近いという共通点を見出したときに手を取り合って自分たちの余生を楽しむ旅に出た。やりたいことリストという死ぬまでにやっておきたいことを箇条書きしたものを手に、残りの人生を如何に楽しむか、その挑戦を始めたのだ。
2人は6ヵ月、長くても1年後には死ぬ運命にあるというのに、なんともまあ生き生きとしていて楽しそうなんだよね。旅をする中で道楽や娯楽に金と時間をひたすら費やし、笑い合い、助け合い、人生最後の数ヵ月を充実したものにしようとしている。
旅行中の2人は本当に楽しそうな笑顔を見せてるんだけど、これって普段からこうだったわけじゃないんだよね。油にまみれて家族のためだけに働いてきた修理工と、家庭に失敗して仕事と結婚するしかなかった富豪ですから、普段からこんな爽快な笑顔を見せられるわけがない。死を間近にしての清々しさとでもいうのか、私みたいな若輩者には及びも付かない雰囲気が漂っていたと思う。
でも、不思議とこんな余生を送りたいとは感じなかった。そもそもこの話は大富豪の友人が出来ないことには成立しないし、そういった意味では現実味に欠ける部分も多い。それを違和感なく表現出来ているのは役者や脚本の上手さだろうけど、純粋に賛同や共感ができないのは、多分アメリカと日本における死生観の違いがあるんだろうな。
私はこの映画にでてくるような男たちのように、ある意味で一直線な人生を歩んでいない。夢を追いかけているとはいっても、一本道を歩いているわけじゃないし、その道程は常にがたついてる。自分が死ぬときのことを想像したことはあるけど、それはやはり理解の範疇を超えているし、10年後どころか1年後の自分さえも分からない、今の私の人生なんてそんなものだ。がむしゃらだといえば恰好は良いけど、その果てになにがあるんかなんて考えるだけでも嫌になる。じゃあ、私の人生はちっとも充実していないのかといえば、そんなことはない。冬コミの原稿を現在やってるけど、それはそれで楽しいし、創作活動に充実感を見出しているというのは本当だろう。
映画の登場人物が求めたのは、充実よりも充足だったのではないか? 死を前にしてのやり残したこと、彼等の人生は満足の度合いはともかく決して不幸せだったわけではないはずだ。形は違えど幸福と言えるときはあったはずであり、時間が経つに連れてそれを忘れていった。修理工が奥さんに対する感想をもらうシーンなど、まさにそうだろう。行き着くところまで来て、彼等は自分の人生に充足感がないことに気づいた。だから旅に出てそれを満たそうとした。金にものを言わせた、ある意味で乱暴な解決法だったんだけど、彼等には病院のベッドや家族のもとで過ごすよりも、ずっと価値有ることだったんだろう。
どうしてこういう映画を日本人は作れないんだろうね。私はアニメ以外の邦画はゴジラぐらいしか面白いものがないと思っているんですが、合間にやっていた時代劇とかなにが面白そうなのかも分からなかった。ありがたみがないんだよね、邦画には。映画としての価値や貴重さが、全然見いだせない。スクリーンで見る気がしないんです。
視聴後はなんとも言い表せない、感慨深い気分に浸っていたのだけど、久々にじっくりと見られる映画に出会うことが出来ました。公開時も予告ぐらいは見ていた気がするのですが、日本の映画は高いですからね。なかなか観に行く機会もなくて。人間としての深みを得たいというのは私が常々考えていることだけど、やっぱりそれを果たすにはある程度の経験と年齢が必要なんだなと実感してしまった。来週はハリー・ポッターがやるらしいけど、そういやハリーでふとした疑問を抱いたんだった。というのも、ハリーは10代の少年少女が出てくる学園モノであり、好いた惚れた、恋した愛した、付き合った別れたが割と頻繁に出てくるけど、そうした行為にラノベとか読む層はどう思っているのかなって。英国と日本の違いといえばそれまでだけど、ちょっと気になっているのです。
話は近頃体調を悪くして病院で検査を受けていた自動車修理工と、その病院の経営者で突然体調が悪くなった二人の初老男性が相部屋になったことから始まる。下町の一般庶民と大統領さえ一目おく大富豪の出会いは、第一印象こそ最悪であったが、対照的な二人はいつしか交流を重ね、死期が近いという共通点を見出したときに手を取り合って自分たちの余生を楽しむ旅に出た。やりたいことリストという死ぬまでにやっておきたいことを箇条書きしたものを手に、残りの人生を如何に楽しむか、その挑戦を始めたのだ。
2人は6ヵ月、長くても1年後には死ぬ運命にあるというのに、なんともまあ生き生きとしていて楽しそうなんだよね。旅をする中で道楽や娯楽に金と時間をひたすら費やし、笑い合い、助け合い、人生最後の数ヵ月を充実したものにしようとしている。
旅行中の2人は本当に楽しそうな笑顔を見せてるんだけど、これって普段からこうだったわけじゃないんだよね。油にまみれて家族のためだけに働いてきた修理工と、家庭に失敗して仕事と結婚するしかなかった富豪ですから、普段からこんな爽快な笑顔を見せられるわけがない。死を間近にしての清々しさとでもいうのか、私みたいな若輩者には及びも付かない雰囲気が漂っていたと思う。
でも、不思議とこんな余生を送りたいとは感じなかった。そもそもこの話は大富豪の友人が出来ないことには成立しないし、そういった意味では現実味に欠ける部分も多い。それを違和感なく表現出来ているのは役者や脚本の上手さだろうけど、純粋に賛同や共感ができないのは、多分アメリカと日本における死生観の違いがあるんだろうな。
私はこの映画にでてくるような男たちのように、ある意味で一直線な人生を歩んでいない。夢を追いかけているとはいっても、一本道を歩いているわけじゃないし、その道程は常にがたついてる。自分が死ぬときのことを想像したことはあるけど、それはやはり理解の範疇を超えているし、10年後どころか1年後の自分さえも分からない、今の私の人生なんてそんなものだ。がむしゃらだといえば恰好は良いけど、その果てになにがあるんかなんて考えるだけでも嫌になる。じゃあ、私の人生はちっとも充実していないのかといえば、そんなことはない。冬コミの原稿を現在やってるけど、それはそれで楽しいし、創作活動に充実感を見出しているというのは本当だろう。
映画の登場人物が求めたのは、充実よりも充足だったのではないか? 死を前にしてのやり残したこと、彼等の人生は満足の度合いはともかく決して不幸せだったわけではないはずだ。形は違えど幸福と言えるときはあったはずであり、時間が経つに連れてそれを忘れていった。修理工が奥さんに対する感想をもらうシーンなど、まさにそうだろう。行き着くところまで来て、彼等は自分の人生に充足感がないことに気づいた。だから旅に出てそれを満たそうとした。金にものを言わせた、ある意味で乱暴な解決法だったんだけど、彼等には病院のベッドや家族のもとで過ごすよりも、ずっと価値有ることだったんだろう。
どうしてこういう映画を日本人は作れないんだろうね。私はアニメ以外の邦画はゴジラぐらいしか面白いものがないと思っているんですが、合間にやっていた時代劇とかなにが面白そうなのかも分からなかった。ありがたみがないんだよね、邦画には。映画としての価値や貴重さが、全然見いだせない。スクリーンで見る気がしないんです。
視聴後はなんとも言い表せない、感慨深い気分に浸っていたのだけど、久々にじっくりと見られる映画に出会うことが出来ました。公開時も予告ぐらいは見ていた気がするのですが、日本の映画は高いですからね。なかなか観に行く機会もなくて。人間としての深みを得たいというのは私が常々考えていることだけど、やっぱりそれを果たすにはある程度の経験と年齢が必要なんだなと実感してしまった。来週はハリー・ポッターがやるらしいけど、そういやハリーでふとした疑問を抱いたんだった。というのも、ハリーは10代の少年少女が出てくる学園モノであり、好いた惚れた、恋した愛した、付き合った別れたが割と頻繁に出てくるけど、そうした行為にラノベとか読む層はどう思っているのかなって。英国と日本の違いといえばそれまでだけど、ちょっと気になっているのです。
銀河英雄伝説 Blu-ray BOX1
2009年10月29日 映画
とりあえず、らいとすたっふを殴りに行けばいいのでしょうか。おっと、いきなり過激なことを書いて申し訳ない。どうせ出るだろうとは思ってたけど、まさか先に発売したLEGEND BOXと違い、ばら売りされるとはね。しかも、それでもBlu-rayのほうが安いかも知れないって、これは酷い。
いくら、らいとすたっふはこれ以外に売る物がないといっても、LEGEND BOXが出てから2年しか経ってないじゃないか。
私は、LEGEND BOXが発売される際のイベントに行ったんですけど、そのとき「DVDはもう出さない」という言葉を聞きました。なるほど、DVDはもう出さないですか。うん、確かにDVDではないよね。Blu-rayだもの。
銀英伝とカードキャプターさくらには金を惜しまないことで知られる私ですが、さすがにこれはどうしようか悩みます。いや、そもそもの話、我が家にはBlu-rayを見られる環境がないんですよ。だから買ってもあまり意味がないというか、DVDも沢山持ってるしなぁ。ファミリー劇場で再放送やってたときから嫌な予感はしてたんだけど、まさかこんなに早く出してくるとは思わなかった。銀英伝は一定のファンが付いている作品だから、出せばある程度は売れるんですよ。私みたいのがほいほい買うんです。
田中芳樹ファンやって長い私ですけど、さすがにこれは考えるな。田中芳樹は好きだけど、らいとすたっふはそこまで好きでもないというか、あそこの社長はなぁw 恩師の後輩だから色々と話を聞く機会も多いが、結構アクの強い人だから。お涼もタイタニアも相次いでアニメ化失敗してますし、さっさとキャストを一新してアルスラーンの再アニメ化に踏み切れと。残虐な描写が多すぎて出来ない? なんとかなるよ、なんとか。あの作品は男多いんだし、腐女子を釣り上げてしまえばいい。
そういや、田中芳樹の新作買ってないな。中国物は好きじゃないというか、児童書の続編を待ってるんですけどね。なんだって全3巻とかシリーズにしてしまったのかと。いつまで経っても完結しないじゃないかw
銀河英雄伝説という作品に対する思い入れは本当に強くて、私の書いている作品で女の子が主役じゃないものは、なにかと銀英伝の影響が現れている文章になっています。二次創作で言えば随分前に書いた種死なんて、あれは酷いものだった。逆襲の救世主も、読む人が読めば銀英伝のオマージュに近いものがあると、すぐ発見できると思います。
あの作品には私の目指すべきものの全てが入っていたというか、書けるわけがないと判りつつも、銀英伝のような作品を書いてみたいと思ってしまいまして。文章や物語構想の性質が違いすぎると、判ってはいるんだけどね。憧れや夢というのは、やっぱりあるもんでして。
逆に女の子が主役の話の場合、私がもっとも影響を受けたのは荻原規子です。少女ファンタジー書かせてあの人の右に出る者は……結構いると思うけど、私の中ではトップクラスです。これは王国のかぎとか、あれは傑作だった。以前私が書いた一次創作を新人賞に出したとき、良い線行ったんですけど落選したことがあって、その理由が荻原規子に似すぎていたから。内容のパクリとかそういうんじゃないけど、文章が劣化したようなものだった。どうにも西尾維新もどきは許されても、荻原規子もどきはダメらしい。前者なんて、日日日を初めとして沢山いるのにね。
荻原規子といえば、西の善き魔女のアニメ化は残念だったな。原作からして後半は分けの分からない作品だったけど、個人的には好きな部類に入ったので。というか、まともに完結したんだっけあの作品は。アニメはどうだったか忘れましたが、確か凄い投げやりな感じで終わらせてた気がする。どこの打ち切り漫画かと思ったし。
文句ばかり書いてるけど、結局、銀河英雄伝説Blu-ray BOXは買ってしまうんだろうな。CCさくらのときもそうだったけど、別格の作品というのは誰しも持っているはずで、私はこの二作品に対しては妥協したくないから。でも、らいとすたっふの商法にまんまと載せられるのもそれはそれで嫌だから、慎重にならないとね。第一、金ないしw
本当に今月は散財しすぎて、気付けば近づく年末の足音。コミケ用の軍資金は積み立ててあるとはいえ、冬に出す本の印刷費もあるから……ちょっと無駄に買い物しすぎたかな。明日もエロゲを何本か引き取らないといけないし、もう少し考えて金を使うべきだった。祈るべくは明日買うエロゲが地雷じゃありませんように、かな。体験版をやらないで買うことが最近増えたので、地雷遭遇率が高まってるんだよね。こう仕事が忙しいと、体験版をやる暇もない。体験版やる暇あったら摘んでるエロゲやるし! まったく、ままならない日常です。
いくら、らいとすたっふはこれ以外に売る物がないといっても、LEGEND BOXが出てから2年しか経ってないじゃないか。
私は、LEGEND BOXが発売される際のイベントに行ったんですけど、そのとき「DVDはもう出さない」という言葉を聞きました。なるほど、DVDはもう出さないですか。うん、確かにDVDではないよね。Blu-rayだもの。
銀英伝とカードキャプターさくらには金を惜しまないことで知られる私ですが、さすがにこれはどうしようか悩みます。いや、そもそもの話、我が家にはBlu-rayを見られる環境がないんですよ。だから買ってもあまり意味がないというか、DVDも沢山持ってるしなぁ。ファミリー劇場で再放送やってたときから嫌な予感はしてたんだけど、まさかこんなに早く出してくるとは思わなかった。銀英伝は一定のファンが付いている作品だから、出せばある程度は売れるんですよ。私みたいのがほいほい買うんです。
田中芳樹ファンやって長い私ですけど、さすがにこれは考えるな。田中芳樹は好きだけど、らいとすたっふはそこまで好きでもないというか、あそこの社長はなぁw 恩師の後輩だから色々と話を聞く機会も多いが、結構アクの強い人だから。お涼もタイタニアも相次いでアニメ化失敗してますし、さっさとキャストを一新してアルスラーンの再アニメ化に踏み切れと。残虐な描写が多すぎて出来ない? なんとかなるよ、なんとか。あの作品は男多いんだし、腐女子を釣り上げてしまえばいい。
そういや、田中芳樹の新作買ってないな。中国物は好きじゃないというか、児童書の続編を待ってるんですけどね。なんだって全3巻とかシリーズにしてしまったのかと。いつまで経っても完結しないじゃないかw
銀河英雄伝説という作品に対する思い入れは本当に強くて、私の書いている作品で女の子が主役じゃないものは、なにかと銀英伝の影響が現れている文章になっています。二次創作で言えば随分前に書いた種死なんて、あれは酷いものだった。逆襲の救世主も、読む人が読めば銀英伝のオマージュに近いものがあると、すぐ発見できると思います。
あの作品には私の目指すべきものの全てが入っていたというか、書けるわけがないと判りつつも、銀英伝のような作品を書いてみたいと思ってしまいまして。文章や物語構想の性質が違いすぎると、判ってはいるんだけどね。憧れや夢というのは、やっぱりあるもんでして。
逆に女の子が主役の話の場合、私がもっとも影響を受けたのは荻原規子です。少女ファンタジー書かせてあの人の右に出る者は……結構いると思うけど、私の中ではトップクラスです。これは王国のかぎとか、あれは傑作だった。以前私が書いた一次創作を新人賞に出したとき、良い線行ったんですけど落選したことがあって、その理由が荻原規子に似すぎていたから。内容のパクリとかそういうんじゃないけど、文章が劣化したようなものだった。どうにも西尾維新もどきは許されても、荻原規子もどきはダメらしい。前者なんて、日日日を初めとして沢山いるのにね。
荻原規子といえば、西の善き魔女のアニメ化は残念だったな。原作からして後半は分けの分からない作品だったけど、個人的には好きな部類に入ったので。というか、まともに完結したんだっけあの作品は。アニメはどうだったか忘れましたが、確か凄い投げやりな感じで終わらせてた気がする。どこの打ち切り漫画かと思ったし。
文句ばかり書いてるけど、結局、銀河英雄伝説Blu-ray BOXは買ってしまうんだろうな。CCさくらのときもそうだったけど、別格の作品というのは誰しも持っているはずで、私はこの二作品に対しては妥協したくないから。でも、らいとすたっふの商法にまんまと載せられるのもそれはそれで嫌だから、慎重にならないとね。第一、金ないしw
本当に今月は散財しすぎて、気付けば近づく年末の足音。コミケ用の軍資金は積み立ててあるとはいえ、冬に出す本の印刷費もあるから……ちょっと無駄に買い物しすぎたかな。明日もエロゲを何本か引き取らないといけないし、もう少し考えて金を使うべきだった。祈るべくは明日買うエロゲが地雷じゃありませんように、かな。体験版をやらないで買うことが最近増えたので、地雷遭遇率が高まってるんだよね。こう仕事が忙しいと、体験版をやる暇もない。体験版やる暇あったら摘んでるエロゲやるし! まったく、ままならない日常です。