ヨスガノソラ二次創作SS 穹と瑛の手作りクッキング
2010年6月29日 ヨスガノソラ「えっ、ハル、出かけるの?」
まだ十分に眠気を残した目覚めかけの朝。私は布団の中で寝返りを打ちながら、隣に寝ているハルの方へと向きを変える。
「昨日寝る前に言わなかった? 今日は街の方まで行くって」
「聞いていない」
「いや、確かに言ったよ」
「じゃあ、忘れた」
布団の中で手を動かし、ハルの手を見つけだして握ってみる。眠いせいか思うように力が入らない。
「忘れたって……」
「ハルのせい。昨日、激しかったから」
「う……」
ぐうの音も出ないのか、ハルは私に言われて押し黙ってしまう。朝の冷涼な空気は、全裸で布団にくるまる私たちには少し肌寒い。私はハルの身体を抱き寄せると、その鼻先に顔を近づける。
「遊びに行くの?」
今日は休日だから、街まで出るとなれば特別な買い物でもない限り、遊びに行くのだろう。それはそれで構わないし、休日をどのように過ごそうとハルの勝手だが、なんで私を誘ってくれないのか。
私の不満げな視線に気付いたのか、ハルがやや苦笑気味に口を開いた。
「亮平と一緒に行くんだけど、それでいいなら穹も一緒に――」
「なんかお土産買ってきて」
にべもなく言う私。正直、ヒゲのことはそこまで嫌いではない。間違っても好きではないが、ハルが仲良くしている、ハルと仲良くしてくれている時点で、いい人なんだとは思う。けれど、だからといって私が好きになるかは別問題だった。
「判ったよ、なにか美味しいお菓子でも探してくるから、留守番よろしくな?」
そう言われると、私も「わかった」と納得するしかなかった……
こうして私の、ハルのいない休日が始まった。
ハルがいないと、私はあらゆることに対してやる気を失い、面倒だと思う気持ちが大きくなる。普段から面倒くさがりではないか、と言われるかも知れないけど、ハルがいれば多少のことは頑張ろう気持ちになれるのは確かだ。逆にハルがいなければ、なにをするにも億劫に感じてしまう。
朝食の仕度にしてもそうで、慌ただしく出ていったハルとは違い、私にはキチンとしたメニューを用意するだけの時間があったのだが、いざ食卓に並んでいるのは適当に焼いたトーストと、一杯の紅茶だけ。料理をするにも、一人分に手間を掛ける気が起きない。
柚のマーマレードをトーストに塗りながら、私は小さく息をつく。一人だけの朝食というのは、思えば随分久しぶりかも知れない。いつもなら私の前にハルがいて、平日なら学校に行く前の何気ない会話を楽しみ、休日なら平穏な朝のひとときを楽しむだけの余裕があった。
「ハル、間に合ったのかな」
私とハルが目を覚ました時点で、ヒゲとの待ち合わせ時刻まで二時間の余裕があった。それなのにハルが慌ただしく出て行ったというのは時間の使い方を間違えたからで、その、私のせいでもある。時間があるならと、昨日の夜の続きをしてしまったから……。でも、ハルだって「朝っぱらから、こんな」とか言いつつ結構乗り気だったので、お相子だろう。
一人で食べる朝食は味気なく、私は食べ終わった食器を流しに漬けると、片付けもそこそこに自室へと戻った。淹れたての紅茶をすすり、さて、これからどうしようかと考える。とりあえずパソコンの電源を入れてみるが、ハルがサボっているせいで未だにネットには繋がっていない。ここは都会と違ってあまりネットを使用する人もいないから、業者を呼んだり、手続きが色々と面倒なのだそうだ。
ハルもいないし、ネットも使えない。それだけで私はすることがなくなってしまう。本を開いてみたり、大して興味もそそらないテレビを付けてみたりしたけど、良く判らない番組ばかりだったのですぐに消してしまった。
「……ハル、どうしてるのかな」
気付くと、私はハルの名前を呟いていた。ハルが出掛けてから、まだ一時間も経っていないはずなのに、私にとっては随分長い時間のように感じる。街まで行くとなれば、ハルが帰ってくるのは夕方か、もしかしたら夜になるかも知れない。朝早く出て行ったけど、それは電車の本数が少ないのと、ここから駅まで時間が掛かるからで、早めに出ても着くのはお昼前ぐらいなのだ。
「早く帰ってくればいいのに」
私は早くも、暇を持て余しつつあった。
カリカリと、鉛筆の音だけが室内に響く。結局、なにをしていいか良く判らなかった私は暇な時間を勉強に充てていた。今の学校は宿題も少なく、授業内容も都会にいた頃より簡単な方だ。けれど、だからといって勉強しなくても良いというわけではなく、現にハルは都会にいた頃と同じく、テスト期間になると頭を抱えている。
ハルは決して、勉強が出来ない分けじゃないんだと思う。苦手意識は持っているんだろうけど、単純に勉強する暇がないのだ。毎日の家事を初めとして、ハルはこっちに来てからやることが多すぎる。私も手伝ってはいるけど、それでも全然足りないぐらいで、都会にいた頃は都会の便利さがそれを補ってくれていたけど、今はそれもない。
こんな事情もあって、ハルが勉強をする時間というのは休みの日ぐらいしかない。でも、毎日の家事で疲れているハルからすれば、勉強をしなくてはいけないとわかっていても、比較して、たまの休みぐらい遊んでいたいと考えるのも、仕方がないことだと思う。
それならそれで構わないし、普段からハルに迷惑を掛けている身としては、ハルにはもっと気を楽にして貰いたい。勉強は、ハルの分まで私が頑張って、後で教えてあげればいいのだから。
勉強の手を休めて、ふと時計を確認するといつの間にかお昼を過ぎていた。「昼ご飯は適当に食べてくれ」なんてハルは言ってたけど、朝食と同じくなにかを作ろうという気が湧いてこない。もう一度紅茶を淹れて、後はお菓子でも摘んでいようか。さっき淹れたのは私の好みでは少し濃かった。勉強よりも、美味しくて香りと色の良い紅茶を淹れる方が、私にはずっと難しい。
立ち上がって、ティーセットを手にキッチン兼食堂に向かう私。なにかお腹に溜まりそうな茶菓子はあっただろうかと、そんなことを考えながら歩いていたら……
『ごめんくださーい!』
玄関の方から、元気の良い声が響いてきた。家の外、扉の前、誰かが訊ねてきたらしい。
「…………」
訪問客への対応は、いつもハルがやっている。郵便屋と宅急便を除けば、この家を訪れてくるのはみんなハルの知り合いだし、それ以外にも電話とか、人と接する必要があるものは、私が人嫌いというのもあってかほとんどハルに任せきりだった。
単なる訪問客なら、面倒くさいという理由で私は居留守を使ったかも知れない。それをしなかったのは響いてきた声に聞き覚えがあったからで、ハルの知り合いであると同時に、私の知り合いでもあったからだ。
「あっ、穹ちゃん! こんにちはー」
玄関の扉を開けると、そこに瑛が立っていた。天女目瑛、ハルのクラスメイトで、近所の神社に住んでいる女の子だ。ハルの友達だけど、私も話す機会が多くて、ハルと一緒に家まで遊びに行ったこともある。
瑛は普段着として神社の巫女服を着ているとハルが言っていて、私も何度かその姿を目にしたことがあるけど、今日は普通の私服だった。
「なにか、用?」
自分でも愛想のない声だと思うだけに、なんだか申し訳ない気分になってくる。でも、瑛は浮かべた笑顔を崩さずに私の質問に答えてくれる。
「実は煮物を沢山作ったんだけど、私とひろ姉ちゃんだけじゃ食べきれないからお裾分けに来たんだよ」
見れば、瑛の手にはタッパーの入った袋が握られていた。
「あ、ありがとう」
断る理由はなかったから、私は瑛の厚意を素直に受けた。瑛は私に、というより、私とハルに気を使ってくれることが多く、それにいつも助けられているという自覚があった。
「穹ちゃん、一人? ハルくんは?」
ハルが顔を見せないことに疑問を感じたのだろう。瑛がそのように訊ねてくる。
「ハルは出掛けた。……ヒゲと街の方まで」
「亮兄ちゃんと? へー、そうなんだ」
瑛が少し驚いたところを見ると、彼女はハルが街まで行くことを知らなかったのだろう。瑛はハルとヒゲ、両方と仲が良いので少し意外だった。
「あの……よかったら、上がってく?」
「えっ、良いの?」
「うん、お茶ぐらい、出す」
まさか、一人は退屈だからとは言えなかったが、瑛は嬉しそうに「それじゃあ、お邪魔するね!」と、私の申し出を受けてくれた。私のお昼がまだだったので、瑛の持ってきたくれた煮物をおかずに簡単な昼食を取り、なんてことない会話、学校のこと、家のこと、ハルのことなどを話す。
「ハルくんも亮平兄ちゃんも、遊びに行くなら私と穹ちゃんも誘ってくれればいいのに。それとも、男の子同士じゃないと行けない場所とかに行くのかな?」
「男の子同士じゃないと行けない場所?」
そんなところがあるのかと思ったが、私は瑛が「私と穹ちゃんも」と、自然に私のことを含めて話してくることを嬉しく感じた。瑛の言う男の子同士でしか行けない場所とやらは良く判らないけど、確かに瑛が一緒ならあのヒゲにも我慢できると、そんな気がした。あくまで気がするだけだけど。
昼食が終わると、瑛は進んで洗い物を行った。お客さんにそんなことをして貰うのはさすがに気が引けたから自分でやろうとしたら、「いいから、いいから。穹ちゃんは座ってていいよ」と、私が朝食のときに使った食器まで、きれいに洗って片付けてしまった。
「瑛、凄い……」
私もハルも、洗い物は得意な方ではない。いや、そもそも得意な家事というのが存在せず、ハルはかろうじて掃除好きだけど、洗い物は範囲外で、時々洗い残しが目立つ。都会にいた頃は食洗機があったけど、こっちに来るときに処分してしまった。
「まあ、いつもやってるから、このぐらいはね」
特に誇る風でもなく、瑛は物珍しそうな顔で紅茶をすすっている。あまり紅茶という飲み物に親しみがないらしく、私も瑛は紅茶よりも緑茶というイメージがあった。お茶菓子に菓子受けにあったおかきを出したら、キョトンとした眼をされた。アタリメか、いりこの方が良かっただろうか。まあ、紅茶を飲み慣れない瑛にはどれも珍しく思えるのだろう。
「でも、穹ちゃん、一人でお留守番なんて大変だねぇ」
「大変?」
「だって、ご飯とか用意したり、家のことを全部しなくちゃいけないし、私は慣れてるから良いけど、穹ちゃんにはまだまだ大変でしょ?」
やっぱり、家事をしなくてはいけないのだろうか。退屈さは感じていたけど、大変だと思っていなかったのは私が家事をするつもりが一切なかったからだけど、瑛はそれを大変だから手間取っているのだと解釈したらしい。まあ、面倒くさいという気持ちもそれが大変だから感じるのであって、間違ってはいないはずだ。
「瑛は家事、得意なんだね」
「得意というか、嫌いじゃないよ。一人暮らしも、長いからね」
そう、瑛はあの神社の裏にある家で一人暮らしをしている。以前は神主のお祖父さんが一緒だったそうだけど、その人が亡くなってからは、ずっと一人だったそうだ。境遇としては私と似ていなくはないけど、私にはハルがいて、一人ではなく二人だった。ハルは一人で立派に生きている瑛をどこか尊敬しているらしく、家事の先達として色々と相談を持ちかけたりすることもあるらしい。
「穹ちゃん、これからどうするの? なにか予定ある?」
「別に……なにも」
洗濯物は溜まってないし、掃除は昨日の内に済ませたし、洗い物は瑛がやってくれた。夕飯の買い物は、今日はスーパーの販売車が来る日じゃないので、家にあるもので作るしかないだろう……あ、でもそうすると、
「夕ご飯、どうするんだろ」
ハルが帰ってくるのは、早ければ夕方で、遅ければ夜といった感じだ。ハルは特に夕ご飯についてはなにも言ってなかったけど、遊び疲れて帰ってるであろうハルに仕度をさせるのは、さすがにないだろう。
「あー、もう少し煮物を持ってくれば良かったかな。けど、穹ちゃんはお昼と同じ物なんてイヤだよね」
「そんなことない。煮物、美味しかった」
先ほど食べた煮物の味を思い出しながら、私は正直な言葉を口にする。あんな物が私にも作れたらとは思うけど、そんなに簡単なことではない。ハルは自分で悪戦苦闘しつつも料理のレパートリーを増やそうと頑張っている見たいだけど、ハルよりも料理が下手な私としては、一朝一夕でどうにかなる問題ではなかった。
「ハルくん、お料理頑張ってるみたいだね」
何気ない瑛の言葉。そう言えば、以前、大雨で学校が休校になった日、ハルがちょっとした料理を作ったことがあった。いつも私たちが作る粗雑なそれとは違う一品は、瑛から習った、正確に言えば瑛から借りた料理の本を読んで覚えたものらしい。
「瑛、料理も凄い得意なの?」
あんなに美味しい煮物が作れるんだから、苦手と言うことはないだろう。
「んー、凄い得意ってほどじゃないけど、お料理は好きだよ。やっぱり、自分で作って食べるご飯は美味しいから」
笑う瑛の表情にまぶしいものを感じながら、私は頭の中で思考を巡らせる。今日、家にはハルがいなくて、いるのは私と瑛の二人きり。ハルは夜まで帰ってこないから、代わりに夕飯の仕度は私がしないといけない。だったら……
「瑛、これから時間、ある?」
「ふぇ? うん、暇だよ」
元々、煮物のお裾分けついでに遊びに来るのが目的だったらしい。おかきを食べながら頷く瑛に、私は思い切って言葉を発する。
「私に……その、料理を教えてっ!」
ハルが帰ってきたとき、そこにもう夕飯の仕度がしてあったら、ハルは喜んでくれるかも知れない。自分のためではなくて、ハルのため。好きな人のために料理をしたい、憶えたいと私は思っているのだけど、当然、そこまでは瑛にも話さない。
瑛は私の頼みに目を丸くして、僅かに放心していたらしい。私がこんなことを言い出すとは思っていなかったのか、自分が頼まれるとは想像していなかったのか、いずれにせよ数秒で我に返った瑛は、思い切り首を縦に振った。
「あたしでいいなら、喜んでお手伝いするよ! でも、あたしなんかでいいの?」
「瑛以外に、頼める人いないから」
「そっか……それなら、決まりだね!」
すっと右手を指しだしてきたので、私はそれをつかむ。瑛は握りしめた手をブンブンと振って、嬉しそうに微笑んでいた。
「さて、それじゃあ第一回あたしと穹ちゃんによるお料理教室の開催だよっ」
お互いにエプロンを着けて、キッチンに立つ私たち。一応、料理をするための道具一式はこの家にだってある。あんまり使われていないせいか、瑛が軽く洗ったりしていた。
「それで穹ちゃん、ハルくんの好きなものってなにかな?」
「ハルの? えっと、カレーと……」
言いかけて、私は瑛がハルの好きなものを訊ねてきたことに気付いた。瑛は笑顔を崩さず、私の方を見つめてくる。どうやら、心の中を悟られているらしい。どうにも、私はこの子にだけは隠し事をする自信がなかった。
「カレーと、ハンバーグ。けど、カレーは作れるから」
「それならハンバーグにチャレンジしてみようか? でもでも、ハルくんもやっぱり男の子っぽいメニューが好きなんだね」
「そうかも」
薄く笑いながら、私は瑛に同意した。ハルはあれで子供っぽいところがあるから、都会にいたときも外食の際はファミレスを好んでいたし、格式張ったレストランよりも、和洋折衷の料理が楽しめるところが好きだった。
「ちなみに、穹ちゃんはどんなのが好き?」
「えっと……私は」
ハルの好きな食べ物というのは、実は私の好きな食べ物でもある。双子だからか、味覚が似ているのだ。オムライスとかエビフライとか、そういうわかりやすい洋食が好きだった。
「都会の人って、洋食好きが多いのかな?」
「それは……私は確かに、和食をあんまり食べないけど」
お刺身とかお寿司とか、生物が苦手なのだ。唐揚げにすれば食べられるけど、刺身の意味がないじゃないかとハルは呆れる。
ガサゴソと冷蔵庫の中をのぞき込みながら、瑛が中から色々と食材を出していく。作ると言っても材料がないと始まらないわけだけど、その点にどうやら心配はいらないらしい。お肉や卵、タマネギといったものを冷蔵庫から取り出し、ふと、なにかを探すように辺りを見回したが、食パンが入った袋に目を止め、「これで大丈夫かな」と呟きながら、それを手に取った。食パンなんてなにに使うのだろうか? 主食なら、お米がまだあるのに。
「穹ちゃんは、ハンバーグ作ったことある?」
「ない。けど、大体の作り方ならわかると思う」
「ふむふむ、どんな感じかな?」
どんな感じもなにも、タマネギをみじん切りにしてひき肉と混ぜて、こねて形を作ったら焼けばいいだけだ。
「うーん……大まかに言えば、まあ、そんな感じだけど」
困ったような顔をしながら、瑛が首を傾かせる。どうやら、私の想像以上にハンバーグ作りとは難しいらしい。そう言えば、テーブルの上に並んだ食材は、意外なほど多かった。
「まずは食材の紹介だからだね。まずはお肉だけど、これは冷蔵庫にあった合い挽き肉を使おうか。グラムは……四〇〇グラムだね」
「合い挽き肉?」
「牛肉と豚肉の挽肉のことだよ」
「ハンバーグって、牛肉だけじゃないんだ」
「本当は牛肉だけの方が良いんだろうけど、牛さんは高いから。テレビとかでも、牛肉100パーセントハンバーグとか、宣伝してたりするでしょ?」
そういえば、都会にいた頃もファミレスなんかでそうした広告をみたことがあった。なんで牛肉を使っていることを宣伝しているのかわからなかったけど、そんな理由があったとは知らなかった。
「それと、タマネギが二個に卵が一個。後は……作りながら説明するよ」
瑛はそう言うと、タマネギの一つを手に取った。まずは、皮むきからだった。タマネギという連中はその気になればどこまでも剥けてしまうので、どこからどこまでが皮なのかがわかりづらい。瑛曰く、「茶色のが皮で、白いのが中身だよ」とのことだ。先の青っぽい部分は切ってしまうらしい。
剥き終わったタマネギをまな板の上に置いて、包丁で上下を切った後、半分に切る。切るというよりは割るという感じだけど、後はこれをみじん切りにするんだろうか?
「先に、芯を取るんだよ」
「芯?」
「そう、タマネギには下の方が芯があって……ここだね、ここを三角に切っちゃおうか」 手慣れた手つきで瑛はタマネギの芯抜きをして、今度は私のほうに包丁を渡す。
「あ、芯を取るとタマネギって崩れやすくなるから注意してね」
言われたとおり、恐る恐る芯を取る私。瑛のように綺麗には取れなかったけど、なんとか出来た。
「みじん切りの場合だと、始めに取らないで刻み終わった後に取るって人も多いんだけどね、崩れやすくなるから。私は細かく刻むと混ざっちゃう気がして先に取るんだけど、その辺りは穹ちゃんの好きな方でいいと思うよ」
「うん……わかった」
トントントントンとリズミカルな音を立てながら、私たちはタマネギを刻んでいく。刻む前に少しだけタマネギを水に漬けたけど、こうすることで切る際に涙が出るのを防げるらしい。確かに、目に染みてこない。
「でも、なんでタマネギを切ると目に染みるんだろうねー?」
「それはアリルプロピオンがあるから」
「ありる……?」
「アリル化合物。タマネギを切ると、中に含まれている硫化アリルが気化して、それで目や鼻の粘膜が刺激される。だから、涙が出る」
「へぇー、そうなんだー。穹ちゃん物知りだね!」
対処法は知っていても、その原因がなんであるかは知らなかったらしい。瑛らしいと言えば、瑛らしいけど。
「次は刻んだタマネギを炒めるんだけど、フライパンはホーロー? それともステンレス?」
「えっ……さぁ」
フライパンって、鉄じゃないの?
「んっしょと、えーっと、これは……ステンレスだね。じゃあ、サラダ油を軽く引こうか」
熱したフライパンに油を引いて、刻んだタマネギを炒めていく。自分でやらなくちゃ、ということで私が木べらを使って手探りにやってみる。
「どれぐらい炒めればいいの?」
「テレビとかではよくあめ色とか、黄金色が良いなんて言われてるけど、私はちょっと茶色になるぐらい、きつね色で止めてるかな? 美味しいそうだしね!」
「きつね色、きつね色……」
炒め終わったタマネギはとりあえずフライパンに放置して、今度は合い挽き肉をボールに移す。早速タマネギを移してこねるのかと思ったら、「違うよ、穹ちゃん」と、瑛は卵を手にしながら止めてくる。
「卵を割って、お肉に混ぜないと」
「卵?」
「そう、穹ちゃんが割ってみる?」
私だって卵ぐらい割れる。ボールの縁でカカッと音を立てながら卵を割り、瑛の指示で中身をボールへと入れる。
「ハンバーグのときは全卵、卵と黄身を両方使うんだよ。こうすると、次に入れるタマネギとお肉が旨くまとまって、〈繋ぎ〉の効果が出るの」
「繋ぎ……」
「卵を入れたら、フライパンの中にあるタマネギだね。穹ちゃん、ドバッと入れちゃっていいよ」
木べらを使いつつ、ボールの中にタマネギを入れる。瑛は調味料が置いてあるところから塩とコショウの瓶を持って来る。味付けをするようだ。
「ハルくんって、ハンバーグにはなにをかけて食べる人?」
「ん……普通にソース、かな。かけないときもあるけど」
ハル曰く、「ソースを食べている分けじゃない」とのことで、私がソースをびちゃびちゃかけているときなどに苦言を呈す。
「なら、味付けは少し濃い方が良いね。塩コショウ、コショウは黒コショウを使うのがいいよ」
塩とブラックペッパーを振りながら、瑛が解説していく。特に分量などはなく、味付けというのは好みの問題だから決まりはないそうだ。下味を濃くすることで、ソースなどをかけない人も十分に味わえる仕上がりになるらしい。
「後は生地をこねるだけなんだけど……その前に用意するものがあるね。穹ちゃん、このお家ってフードプロセッサーとか、おろし金ってある?」
「フードプロセッサーならあるけど」
都会にいた頃、通販で買ったハンディタイプのがあった。買うだけ買ったのにほとんど使わず、それでも処分しなかったのは特に邪魔になる大きさでもなかったからだ。
「じゃあ、これに千切った食パンを入れようか」
「食パン? なんで?」
「これも繋ぎだよ。本当はパン粉がいいんだけど、なかったから」
千切った食パンをフードプロセッサーに入れて、スイッチを押す。食パンがパン粉になるまで数秒、すぐにサラサラになった。瑛は生地をこねながら、作った生パン粉を加えていく。
「さっきの卵はお肉とタマネギを繋ぐためで、このパン粉は生地全体を繋ぐためのものだよ。穹ちゃんもやってみる?」
生地をこねることに対抗を感じなかった分けじゃないけど、なんでも瑛に任せていては意味がない。生地は思っていた以上に柔らかいけど、不思議と手にベタついてこない。これがパン粉の効果らしい。
「型を整える際は、俵型がいい感じだね。こんな風に両手で……」
「こ、こう?」
「そう、そんな感じ! 穹ちゃん、上手だよ」
褒められると、少しくすぐったくなる。瑛のと違って少しいびつだけど、はじめてにしては上出来だろう。
「型を整えたら、生地を寝かそうか? すぐに焼くことも出来るけど、生地を寝かせることで焼いたときに型くずれしにくくなるから」
その間なにをしてようかと瑛が訊ねてきたから、私は近くにあったティーセットに目をやって、
「お茶、飲む? 紅茶だけど」
「そうだね、じゃあ、ご馳走になろうかな。けど……」
珍しく、瑛が少し言いにくそうに言葉を漏らした。
「お茶菓子は、違うのがいいかな」
生地を寝かせている時間、私たちは紅茶を飲みながら過ごしている。瑛は私が出したアタリメを、やはり不思議そうに見つめながら食べている。
「穹ちゃんさ、前にも訊いたと思うけど、二人暮らしはどう? 大変じゃない?」
「慣れてきた、かな。まだ手探りな部分も多いけど……それに、大変なのは瑛だって」
「あたしは、長いから」
一言で切り捨てる瑛の顔は、笑っているけどつかみ所がないというか、妙な深みを持っていた。まるで、それ以上は踏み込んではいけないような、目には見えない心の壁。私がそれを感じ取れたのは、私も同じようなものを持っていたからで……
「長いだけが理由じゃないけど、昔から家事とかはしてきたから」
今でこそ一人暮らしをしている瑛も、昔は一緒に暮らしていた人がいて、神社の神主だったおじいさんが保護者だったらしい。私とハルの祖父母と同年代の高齢者だったため、手伝う意味も兼ねて自然に家事を憶えていったようだ。
「寂しくは、ないの?」
いつか、瑛に訊かれたことを訊ね返してみる。質問に、瑛は目を開いて答えた。
「寂しくはないかな。悲しいこと、寂しいこと、そういう気持ちを忘れる必要はないけど、それをずっと抱え込んだままなのは、ね」
「瑛……」
「あはー、でも、穹ちゃんとハルくんを見ていると、たまに羨ましいなとは思うよ。楽しいそうだなぁ、ラブラブだなぁって」
ハルの名前が出てきたことで、私はもう一つの質問をするべきかどうか考え始める。前々から一度訊いてみたかった、確認しておきたかったこと。けれど、それを投げかけてもいいのか、投げかけることで今の瑛との関係が壊れないか、私にはその心配があった。
だけど……
「瑛って、その」
穏やかな瑛の表情を見ていると、口から言葉が滑り落ちてしまう。
「ハルのこと、好きなの?」
思い切って、私は自分の抱いていた疑問を瑛にぶつけた。嫌いでないことは分かり切っているから、この場合の好きかどうかと言うのは、より深い意味での話だ。瑛の視線が私の視線と交錯し、私は目をそらしたくなる気分をグッと堪えた。
「……好きだよ、初恋の人だもん」
「――っ!?」
やっぱり、そうなんだ。瑛は以前から私とハルに好意的で、気を使ってくれている。それはただの友達というレベルを超えており、私は瑛がハルに特別な好意を抱いているのではないかと、この子の態度や発言から感じ取っていた。ハルはあの通り鈍いからともかくとして、周囲でも気付いているの私ぐらいだと思う。
「私は……」
瑛のことは嫌いじゃないし、どちらかと言えば好きな方だ。けれど、それはあくまで友人としてであって、瑛がハルの恋人になるのだとすれば、また話は違ってくる。
いや、そうじゃない。最大の問題は、私が〝瑛にならハルを渡しても構わないかも〟と、心のどこかで思っていることだろう。明るくて、元気で、家事も出来て、私なんかより、女の子としてずっと魅力がある。仮にハルが瑛と付き合うことになったら、私はそれに反対できるだろうか? 〝あの人〟のときとは違い、あまり自信がなかった。
「大丈夫だよ、穹ちゃん」
俯きながら悩む私の手に、瑛の手がそっと添えられた。
「あたしはハルくんが好きだけど、好きな人は他にも沢山いるから」
「えっ……?」
「亮兄ちゃんやカズちゃん、初佳さんやひろ姉ちゃん。あたしは、あたしの周りにいるみんなのことが好きなんだよ」
およそ人嫌いとは無縁な人生を送ってきたであろう瑛の言葉に、嘘偽りは感じられない。
「でも、その好きは」
「確かに、ハルくんに対する好きと、他の人に対する好きは、少しだけ違うのかも知れない」
けどね、穹ちゃん……と、瑛は言葉を続けていく。語りかけるように、穏やかな表情と口調で。
「ハルくんは穹ちゃんと一緒にいて幸せそうだし、穹ちゃんだってハルくんといて幸せなんでしょう? だったら、あたしもそれが一番嬉しいよ。だって私は――」
穹ちゃんのことも、大好きだから。
瑛の見せる優しさと温かさに、私は胸が熱くなるのを感じていた。
「人によっては、損な性格だって思われるのかも知れないし、言われたこともある。でも、あたしは自分のことを不幸だなんて感じたことは、一度もないから」
悲しいこと、辛いことはいくらでもあった。けれど、それ以上に嬉しいとか楽しいとか、
幸せだなぁと感じられることも、いっぱいあったから。
「だから、結構幸せだよ、あたしは」
瑛の言葉に、私は自分を当て嵌めて考えてみる。私も、他人から見れば十分に不幸な人生を歩んでいるだろう。小さい頃から病弱で、病院のベッドで過ごした時間が多く、やっと退院できたと思ったら、今度は事故で両親を失った。安楽な境遇とは言えないし、決して幸せとは呼べないだろう。
「でも、私にはハルがいる」
瑛が先ほど言ったかけがえのない友人たちに囲まれているように、私にはハルがいて、ハルには私がいた。心に似た部分を持っている私と瑛の、それは明確な違いだった。
「私も、幸せなのかな」
今までも、そしてこれからも、ハルが入り限り、私は幸せを失わずに済む。
私は瑛の方に視線を、すべてを理解している少女へと向ける。瑛は私に手を重ねたまま、言葉を紡いでいった。
「それでいいんだよ、穹ちゃん」
頷きながら、瑛は微笑む。それが心の底からの笑顔であることに、私は気付いた。
「ありがとう、瑛」
話を終えて、私たちはハンバーグ作りの最終段階、焼く作業に入った。
熱したフライパン、ステンレス製の場合は生地からでる油だけで焼けるため、特に油を引いたりはしないらしい。ここに成形した生地を入れ、フタをして焼き上げる。片面が焼けたらフライ返しでひっくり返して、両面をしっかりと焼く。好みでチーズを乗せたりするそうだけど、チーズがなかったのでそれはまた今度にしよう。
「そうだ、簡単なソースを作ろうか?」
同量の中濃ソースとケチャップを混ぜて、ハンバーグからでた肉汁を加える。この手作りソースをかけても美味しいとのことで、実際に食べるときに試してみようと思う。
添え物としては、なににしようか二人で考えて、じゃがいものバター焼きにした。ブロッコリーとかにんじんはあまり好きじゃなかったし、パスタがなかったので、パスタのケチャップ和えも作れなかったからだ。
「こんなものかなぁ。穹ちゃん、お皿の用意は出来た?」
生地は全部で四つほど成形したから、その内の一つを試食として食べることにした。お皿に盛りつけたハンバーグ、瑛と二人で作ったそれは、いい匂いを立てていた。
「うんうん、ちゃんと火も通ってるし、いい感じだね!」
ナイフで半分に切り分けて、火の通りを核にしたら、私たちはそれぞれフォークでハンバーグを食べてみる。
「美味しい……!」
一口噛みしめただけで、口の中に肉汁が広がってきた。崩れにくく、それでいて柔らかいハンバーグは、ビックリするほど美味しい
「穹ちゃんが作ったんだよ、これは」
「で、でも、私はなにも……ほとんど瑛が」
「違うよ、穹ちゃんがやってみたい、作ってみたいと思ったから、ここまでの物が出来たんだよ」
その気持ちが、大事なんだよ。
瑛はそういいながら、もう一口、実に美味しそうにハンバーグを頬張った。
残った三つの生地の内、二つは私とハルの夕飯用として、一つはラップに包んで瑛へと渡した。夕飯も一緒にどうかと誘ったけど、気を使ってくれたのか、断られてしまった。
「今日はありがとうね、穹ちゃん」
「? お礼を言うのは、私の方」
「ううん、誰かと一緒に料理をするのって凄く久しぶりだったから……本当に楽しかった。だから、ありがとう」
家に帰る瑛を玄関の外まで見送り、その姿が見えなくなるまで私は立っていた。気恥ずかしさが頬を熱くし、赤くする。瑛も私も、随分と踏み込んだ部分まで話したような気がする。けれどそれは、お互いにそこまで言えるだけの関係になれたと、そういうことだろう。
瑛は自分のことを幸せだと言った。私も、自分のことはそれほどまでに不幸ではないと思っている。重要なのはその点であり、今日一日で私が瑛から料理と共に学んだことだった。
瑛が帰り、しばらくしたらハルが帰ってきた。時刻は夕方と夜の間ぐらい、思っていたより少し早い。
「ハルっ!」
私は足取りをはずませて玄関まで駆けると、靴を脱ぎかけていたハルに向かって抱きついた。
「わっ、ちょっと、穹」
驚きながら、ハルは私のことをしっかりと抱き留めてくれる。手にはなにやら白い箱が握られており、どうやらお土産のケーキらしい。
「ハル、ご飯できてるけど、それとも先にお風呂に入る?」
「へっ? あぁ、それじゃあお風呂に……って、ご飯ができてる?」
既に夕飯の仕度ができていることに、ハルは心底驚いたらしい。私が自分で用意したと知ると、喜んだり感動したり、色々と忙しそうだった。
そんなハルを見つめながら、私は思う。
なるほど、私も結構幸せじゃないか、と。
まだ十分に眠気を残した目覚めかけの朝。私は布団の中で寝返りを打ちながら、隣に寝ているハルの方へと向きを変える。
「昨日寝る前に言わなかった? 今日は街の方まで行くって」
「聞いていない」
「いや、確かに言ったよ」
「じゃあ、忘れた」
布団の中で手を動かし、ハルの手を見つけだして握ってみる。眠いせいか思うように力が入らない。
「忘れたって……」
「ハルのせい。昨日、激しかったから」
「う……」
ぐうの音も出ないのか、ハルは私に言われて押し黙ってしまう。朝の冷涼な空気は、全裸で布団にくるまる私たちには少し肌寒い。私はハルの身体を抱き寄せると、その鼻先に顔を近づける。
「遊びに行くの?」
今日は休日だから、街まで出るとなれば特別な買い物でもない限り、遊びに行くのだろう。それはそれで構わないし、休日をどのように過ごそうとハルの勝手だが、なんで私を誘ってくれないのか。
私の不満げな視線に気付いたのか、ハルがやや苦笑気味に口を開いた。
「亮平と一緒に行くんだけど、それでいいなら穹も一緒に――」
「なんかお土産買ってきて」
にべもなく言う私。正直、ヒゲのことはそこまで嫌いではない。間違っても好きではないが、ハルが仲良くしている、ハルと仲良くしてくれている時点で、いい人なんだとは思う。けれど、だからといって私が好きになるかは別問題だった。
「判ったよ、なにか美味しいお菓子でも探してくるから、留守番よろしくな?」
そう言われると、私も「わかった」と納得するしかなかった……
こうして私の、ハルのいない休日が始まった。
ハルがいないと、私はあらゆることに対してやる気を失い、面倒だと思う気持ちが大きくなる。普段から面倒くさがりではないか、と言われるかも知れないけど、ハルがいれば多少のことは頑張ろう気持ちになれるのは確かだ。逆にハルがいなければ、なにをするにも億劫に感じてしまう。
朝食の仕度にしてもそうで、慌ただしく出ていったハルとは違い、私にはキチンとしたメニューを用意するだけの時間があったのだが、いざ食卓に並んでいるのは適当に焼いたトーストと、一杯の紅茶だけ。料理をするにも、一人分に手間を掛ける気が起きない。
柚のマーマレードをトーストに塗りながら、私は小さく息をつく。一人だけの朝食というのは、思えば随分久しぶりかも知れない。いつもなら私の前にハルがいて、平日なら学校に行く前の何気ない会話を楽しみ、休日なら平穏な朝のひとときを楽しむだけの余裕があった。
「ハル、間に合ったのかな」
私とハルが目を覚ました時点で、ヒゲとの待ち合わせ時刻まで二時間の余裕があった。それなのにハルが慌ただしく出て行ったというのは時間の使い方を間違えたからで、その、私のせいでもある。時間があるならと、昨日の夜の続きをしてしまったから……。でも、ハルだって「朝っぱらから、こんな」とか言いつつ結構乗り気だったので、お相子だろう。
一人で食べる朝食は味気なく、私は食べ終わった食器を流しに漬けると、片付けもそこそこに自室へと戻った。淹れたての紅茶をすすり、さて、これからどうしようかと考える。とりあえずパソコンの電源を入れてみるが、ハルがサボっているせいで未だにネットには繋がっていない。ここは都会と違ってあまりネットを使用する人もいないから、業者を呼んだり、手続きが色々と面倒なのだそうだ。
ハルもいないし、ネットも使えない。それだけで私はすることがなくなってしまう。本を開いてみたり、大して興味もそそらないテレビを付けてみたりしたけど、良く判らない番組ばかりだったのですぐに消してしまった。
「……ハル、どうしてるのかな」
気付くと、私はハルの名前を呟いていた。ハルが出掛けてから、まだ一時間も経っていないはずなのに、私にとっては随分長い時間のように感じる。街まで行くとなれば、ハルが帰ってくるのは夕方か、もしかしたら夜になるかも知れない。朝早く出て行ったけど、それは電車の本数が少ないのと、ここから駅まで時間が掛かるからで、早めに出ても着くのはお昼前ぐらいなのだ。
「早く帰ってくればいいのに」
私は早くも、暇を持て余しつつあった。
カリカリと、鉛筆の音だけが室内に響く。結局、なにをしていいか良く判らなかった私は暇な時間を勉強に充てていた。今の学校は宿題も少なく、授業内容も都会にいた頃より簡単な方だ。けれど、だからといって勉強しなくても良いというわけではなく、現にハルは都会にいた頃と同じく、テスト期間になると頭を抱えている。
ハルは決して、勉強が出来ない分けじゃないんだと思う。苦手意識は持っているんだろうけど、単純に勉強する暇がないのだ。毎日の家事を初めとして、ハルはこっちに来てからやることが多すぎる。私も手伝ってはいるけど、それでも全然足りないぐらいで、都会にいた頃は都会の便利さがそれを補ってくれていたけど、今はそれもない。
こんな事情もあって、ハルが勉強をする時間というのは休みの日ぐらいしかない。でも、毎日の家事で疲れているハルからすれば、勉強をしなくてはいけないとわかっていても、比較して、たまの休みぐらい遊んでいたいと考えるのも、仕方がないことだと思う。
それならそれで構わないし、普段からハルに迷惑を掛けている身としては、ハルにはもっと気を楽にして貰いたい。勉強は、ハルの分まで私が頑張って、後で教えてあげればいいのだから。
勉強の手を休めて、ふと時計を確認するといつの間にかお昼を過ぎていた。「昼ご飯は適当に食べてくれ」なんてハルは言ってたけど、朝食と同じくなにかを作ろうという気が湧いてこない。もう一度紅茶を淹れて、後はお菓子でも摘んでいようか。さっき淹れたのは私の好みでは少し濃かった。勉強よりも、美味しくて香りと色の良い紅茶を淹れる方が、私にはずっと難しい。
立ち上がって、ティーセットを手にキッチン兼食堂に向かう私。なにかお腹に溜まりそうな茶菓子はあっただろうかと、そんなことを考えながら歩いていたら……
『ごめんくださーい!』
玄関の方から、元気の良い声が響いてきた。家の外、扉の前、誰かが訊ねてきたらしい。
「…………」
訪問客への対応は、いつもハルがやっている。郵便屋と宅急便を除けば、この家を訪れてくるのはみんなハルの知り合いだし、それ以外にも電話とか、人と接する必要があるものは、私が人嫌いというのもあってかほとんどハルに任せきりだった。
単なる訪問客なら、面倒くさいという理由で私は居留守を使ったかも知れない。それをしなかったのは響いてきた声に聞き覚えがあったからで、ハルの知り合いであると同時に、私の知り合いでもあったからだ。
「あっ、穹ちゃん! こんにちはー」
玄関の扉を開けると、そこに瑛が立っていた。天女目瑛、ハルのクラスメイトで、近所の神社に住んでいる女の子だ。ハルの友達だけど、私も話す機会が多くて、ハルと一緒に家まで遊びに行ったこともある。
瑛は普段着として神社の巫女服を着ているとハルが言っていて、私も何度かその姿を目にしたことがあるけど、今日は普通の私服だった。
「なにか、用?」
自分でも愛想のない声だと思うだけに、なんだか申し訳ない気分になってくる。でも、瑛は浮かべた笑顔を崩さずに私の質問に答えてくれる。
「実は煮物を沢山作ったんだけど、私とひろ姉ちゃんだけじゃ食べきれないからお裾分けに来たんだよ」
見れば、瑛の手にはタッパーの入った袋が握られていた。
「あ、ありがとう」
断る理由はなかったから、私は瑛の厚意を素直に受けた。瑛は私に、というより、私とハルに気を使ってくれることが多く、それにいつも助けられているという自覚があった。
「穹ちゃん、一人? ハルくんは?」
ハルが顔を見せないことに疑問を感じたのだろう。瑛がそのように訊ねてくる。
「ハルは出掛けた。……ヒゲと街の方まで」
「亮兄ちゃんと? へー、そうなんだ」
瑛が少し驚いたところを見ると、彼女はハルが街まで行くことを知らなかったのだろう。瑛はハルとヒゲ、両方と仲が良いので少し意外だった。
「あの……よかったら、上がってく?」
「えっ、良いの?」
「うん、お茶ぐらい、出す」
まさか、一人は退屈だからとは言えなかったが、瑛は嬉しそうに「それじゃあ、お邪魔するね!」と、私の申し出を受けてくれた。私のお昼がまだだったので、瑛の持ってきたくれた煮物をおかずに簡単な昼食を取り、なんてことない会話、学校のこと、家のこと、ハルのことなどを話す。
「ハルくんも亮平兄ちゃんも、遊びに行くなら私と穹ちゃんも誘ってくれればいいのに。それとも、男の子同士じゃないと行けない場所とかに行くのかな?」
「男の子同士じゃないと行けない場所?」
そんなところがあるのかと思ったが、私は瑛が「私と穹ちゃんも」と、自然に私のことを含めて話してくることを嬉しく感じた。瑛の言う男の子同士でしか行けない場所とやらは良く判らないけど、確かに瑛が一緒ならあのヒゲにも我慢できると、そんな気がした。あくまで気がするだけだけど。
昼食が終わると、瑛は進んで洗い物を行った。お客さんにそんなことをして貰うのはさすがに気が引けたから自分でやろうとしたら、「いいから、いいから。穹ちゃんは座ってていいよ」と、私が朝食のときに使った食器まで、きれいに洗って片付けてしまった。
「瑛、凄い……」
私もハルも、洗い物は得意な方ではない。いや、そもそも得意な家事というのが存在せず、ハルはかろうじて掃除好きだけど、洗い物は範囲外で、時々洗い残しが目立つ。都会にいた頃は食洗機があったけど、こっちに来るときに処分してしまった。
「まあ、いつもやってるから、このぐらいはね」
特に誇る風でもなく、瑛は物珍しそうな顔で紅茶をすすっている。あまり紅茶という飲み物に親しみがないらしく、私も瑛は紅茶よりも緑茶というイメージがあった。お茶菓子に菓子受けにあったおかきを出したら、キョトンとした眼をされた。アタリメか、いりこの方が良かっただろうか。まあ、紅茶を飲み慣れない瑛にはどれも珍しく思えるのだろう。
「でも、穹ちゃん、一人でお留守番なんて大変だねぇ」
「大変?」
「だって、ご飯とか用意したり、家のことを全部しなくちゃいけないし、私は慣れてるから良いけど、穹ちゃんにはまだまだ大変でしょ?」
やっぱり、家事をしなくてはいけないのだろうか。退屈さは感じていたけど、大変だと思っていなかったのは私が家事をするつもりが一切なかったからだけど、瑛はそれを大変だから手間取っているのだと解釈したらしい。まあ、面倒くさいという気持ちもそれが大変だから感じるのであって、間違ってはいないはずだ。
「瑛は家事、得意なんだね」
「得意というか、嫌いじゃないよ。一人暮らしも、長いからね」
そう、瑛はあの神社の裏にある家で一人暮らしをしている。以前は神主のお祖父さんが一緒だったそうだけど、その人が亡くなってからは、ずっと一人だったそうだ。境遇としては私と似ていなくはないけど、私にはハルがいて、一人ではなく二人だった。ハルは一人で立派に生きている瑛をどこか尊敬しているらしく、家事の先達として色々と相談を持ちかけたりすることもあるらしい。
「穹ちゃん、これからどうするの? なにか予定ある?」
「別に……なにも」
洗濯物は溜まってないし、掃除は昨日の内に済ませたし、洗い物は瑛がやってくれた。夕飯の買い物は、今日はスーパーの販売車が来る日じゃないので、家にあるもので作るしかないだろう……あ、でもそうすると、
「夕ご飯、どうするんだろ」
ハルが帰ってくるのは、早ければ夕方で、遅ければ夜といった感じだ。ハルは特に夕ご飯についてはなにも言ってなかったけど、遊び疲れて帰ってるであろうハルに仕度をさせるのは、さすがにないだろう。
「あー、もう少し煮物を持ってくれば良かったかな。けど、穹ちゃんはお昼と同じ物なんてイヤだよね」
「そんなことない。煮物、美味しかった」
先ほど食べた煮物の味を思い出しながら、私は正直な言葉を口にする。あんな物が私にも作れたらとは思うけど、そんなに簡単なことではない。ハルは自分で悪戦苦闘しつつも料理のレパートリーを増やそうと頑張っている見たいだけど、ハルよりも料理が下手な私としては、一朝一夕でどうにかなる問題ではなかった。
「ハルくん、お料理頑張ってるみたいだね」
何気ない瑛の言葉。そう言えば、以前、大雨で学校が休校になった日、ハルがちょっとした料理を作ったことがあった。いつも私たちが作る粗雑なそれとは違う一品は、瑛から習った、正確に言えば瑛から借りた料理の本を読んで覚えたものらしい。
「瑛、料理も凄い得意なの?」
あんなに美味しい煮物が作れるんだから、苦手と言うことはないだろう。
「んー、凄い得意ってほどじゃないけど、お料理は好きだよ。やっぱり、自分で作って食べるご飯は美味しいから」
笑う瑛の表情にまぶしいものを感じながら、私は頭の中で思考を巡らせる。今日、家にはハルがいなくて、いるのは私と瑛の二人きり。ハルは夜まで帰ってこないから、代わりに夕飯の仕度は私がしないといけない。だったら……
「瑛、これから時間、ある?」
「ふぇ? うん、暇だよ」
元々、煮物のお裾分けついでに遊びに来るのが目的だったらしい。おかきを食べながら頷く瑛に、私は思い切って言葉を発する。
「私に……その、料理を教えてっ!」
ハルが帰ってきたとき、そこにもう夕飯の仕度がしてあったら、ハルは喜んでくれるかも知れない。自分のためではなくて、ハルのため。好きな人のために料理をしたい、憶えたいと私は思っているのだけど、当然、そこまでは瑛にも話さない。
瑛は私の頼みに目を丸くして、僅かに放心していたらしい。私がこんなことを言い出すとは思っていなかったのか、自分が頼まれるとは想像していなかったのか、いずれにせよ数秒で我に返った瑛は、思い切り首を縦に振った。
「あたしでいいなら、喜んでお手伝いするよ! でも、あたしなんかでいいの?」
「瑛以外に、頼める人いないから」
「そっか……それなら、決まりだね!」
すっと右手を指しだしてきたので、私はそれをつかむ。瑛は握りしめた手をブンブンと振って、嬉しそうに微笑んでいた。
「さて、それじゃあ第一回あたしと穹ちゃんによるお料理教室の開催だよっ」
お互いにエプロンを着けて、キッチンに立つ私たち。一応、料理をするための道具一式はこの家にだってある。あんまり使われていないせいか、瑛が軽く洗ったりしていた。
「それで穹ちゃん、ハルくんの好きなものってなにかな?」
「ハルの? えっと、カレーと……」
言いかけて、私は瑛がハルの好きなものを訊ねてきたことに気付いた。瑛は笑顔を崩さず、私の方を見つめてくる。どうやら、心の中を悟られているらしい。どうにも、私はこの子にだけは隠し事をする自信がなかった。
「カレーと、ハンバーグ。けど、カレーは作れるから」
「それならハンバーグにチャレンジしてみようか? でもでも、ハルくんもやっぱり男の子っぽいメニューが好きなんだね」
「そうかも」
薄く笑いながら、私は瑛に同意した。ハルはあれで子供っぽいところがあるから、都会にいたときも外食の際はファミレスを好んでいたし、格式張ったレストランよりも、和洋折衷の料理が楽しめるところが好きだった。
「ちなみに、穹ちゃんはどんなのが好き?」
「えっと……私は」
ハルの好きな食べ物というのは、実は私の好きな食べ物でもある。双子だからか、味覚が似ているのだ。オムライスとかエビフライとか、そういうわかりやすい洋食が好きだった。
「都会の人って、洋食好きが多いのかな?」
「それは……私は確かに、和食をあんまり食べないけど」
お刺身とかお寿司とか、生物が苦手なのだ。唐揚げにすれば食べられるけど、刺身の意味がないじゃないかとハルは呆れる。
ガサゴソと冷蔵庫の中をのぞき込みながら、瑛が中から色々と食材を出していく。作ると言っても材料がないと始まらないわけだけど、その点にどうやら心配はいらないらしい。お肉や卵、タマネギといったものを冷蔵庫から取り出し、ふと、なにかを探すように辺りを見回したが、食パンが入った袋に目を止め、「これで大丈夫かな」と呟きながら、それを手に取った。食パンなんてなにに使うのだろうか? 主食なら、お米がまだあるのに。
「穹ちゃんは、ハンバーグ作ったことある?」
「ない。けど、大体の作り方ならわかると思う」
「ふむふむ、どんな感じかな?」
どんな感じもなにも、タマネギをみじん切りにしてひき肉と混ぜて、こねて形を作ったら焼けばいいだけだ。
「うーん……大まかに言えば、まあ、そんな感じだけど」
困ったような顔をしながら、瑛が首を傾かせる。どうやら、私の想像以上にハンバーグ作りとは難しいらしい。そう言えば、テーブルの上に並んだ食材は、意外なほど多かった。
「まずは食材の紹介だからだね。まずはお肉だけど、これは冷蔵庫にあった合い挽き肉を使おうか。グラムは……四〇〇グラムだね」
「合い挽き肉?」
「牛肉と豚肉の挽肉のことだよ」
「ハンバーグって、牛肉だけじゃないんだ」
「本当は牛肉だけの方が良いんだろうけど、牛さんは高いから。テレビとかでも、牛肉100パーセントハンバーグとか、宣伝してたりするでしょ?」
そういえば、都会にいた頃もファミレスなんかでそうした広告をみたことがあった。なんで牛肉を使っていることを宣伝しているのかわからなかったけど、そんな理由があったとは知らなかった。
「それと、タマネギが二個に卵が一個。後は……作りながら説明するよ」
瑛はそう言うと、タマネギの一つを手に取った。まずは、皮むきからだった。タマネギという連中はその気になればどこまでも剥けてしまうので、どこからどこまでが皮なのかがわかりづらい。瑛曰く、「茶色のが皮で、白いのが中身だよ」とのことだ。先の青っぽい部分は切ってしまうらしい。
剥き終わったタマネギをまな板の上に置いて、包丁で上下を切った後、半分に切る。切るというよりは割るという感じだけど、後はこれをみじん切りにするんだろうか?
「先に、芯を取るんだよ」
「芯?」
「そう、タマネギには下の方が芯があって……ここだね、ここを三角に切っちゃおうか」 手慣れた手つきで瑛はタマネギの芯抜きをして、今度は私のほうに包丁を渡す。
「あ、芯を取るとタマネギって崩れやすくなるから注意してね」
言われたとおり、恐る恐る芯を取る私。瑛のように綺麗には取れなかったけど、なんとか出来た。
「みじん切りの場合だと、始めに取らないで刻み終わった後に取るって人も多いんだけどね、崩れやすくなるから。私は細かく刻むと混ざっちゃう気がして先に取るんだけど、その辺りは穹ちゃんの好きな方でいいと思うよ」
「うん……わかった」
トントントントンとリズミカルな音を立てながら、私たちはタマネギを刻んでいく。刻む前に少しだけタマネギを水に漬けたけど、こうすることで切る際に涙が出るのを防げるらしい。確かに、目に染みてこない。
「でも、なんでタマネギを切ると目に染みるんだろうねー?」
「それはアリルプロピオンがあるから」
「ありる……?」
「アリル化合物。タマネギを切ると、中に含まれている硫化アリルが気化して、それで目や鼻の粘膜が刺激される。だから、涙が出る」
「へぇー、そうなんだー。穹ちゃん物知りだね!」
対処法は知っていても、その原因がなんであるかは知らなかったらしい。瑛らしいと言えば、瑛らしいけど。
「次は刻んだタマネギを炒めるんだけど、フライパンはホーロー? それともステンレス?」
「えっ……さぁ」
フライパンって、鉄じゃないの?
「んっしょと、えーっと、これは……ステンレスだね。じゃあ、サラダ油を軽く引こうか」
熱したフライパンに油を引いて、刻んだタマネギを炒めていく。自分でやらなくちゃ、ということで私が木べらを使って手探りにやってみる。
「どれぐらい炒めればいいの?」
「テレビとかではよくあめ色とか、黄金色が良いなんて言われてるけど、私はちょっと茶色になるぐらい、きつね色で止めてるかな? 美味しいそうだしね!」
「きつね色、きつね色……」
炒め終わったタマネギはとりあえずフライパンに放置して、今度は合い挽き肉をボールに移す。早速タマネギを移してこねるのかと思ったら、「違うよ、穹ちゃん」と、瑛は卵を手にしながら止めてくる。
「卵を割って、お肉に混ぜないと」
「卵?」
「そう、穹ちゃんが割ってみる?」
私だって卵ぐらい割れる。ボールの縁でカカッと音を立てながら卵を割り、瑛の指示で中身をボールへと入れる。
「ハンバーグのときは全卵、卵と黄身を両方使うんだよ。こうすると、次に入れるタマネギとお肉が旨くまとまって、〈繋ぎ〉の効果が出るの」
「繋ぎ……」
「卵を入れたら、フライパンの中にあるタマネギだね。穹ちゃん、ドバッと入れちゃっていいよ」
木べらを使いつつ、ボールの中にタマネギを入れる。瑛は調味料が置いてあるところから塩とコショウの瓶を持って来る。味付けをするようだ。
「ハルくんって、ハンバーグにはなにをかけて食べる人?」
「ん……普通にソース、かな。かけないときもあるけど」
ハル曰く、「ソースを食べている分けじゃない」とのことで、私がソースをびちゃびちゃかけているときなどに苦言を呈す。
「なら、味付けは少し濃い方が良いね。塩コショウ、コショウは黒コショウを使うのがいいよ」
塩とブラックペッパーを振りながら、瑛が解説していく。特に分量などはなく、味付けというのは好みの問題だから決まりはないそうだ。下味を濃くすることで、ソースなどをかけない人も十分に味わえる仕上がりになるらしい。
「後は生地をこねるだけなんだけど……その前に用意するものがあるね。穹ちゃん、このお家ってフードプロセッサーとか、おろし金ってある?」
「フードプロセッサーならあるけど」
都会にいた頃、通販で買ったハンディタイプのがあった。買うだけ買ったのにほとんど使わず、それでも処分しなかったのは特に邪魔になる大きさでもなかったからだ。
「じゃあ、これに千切った食パンを入れようか」
「食パン? なんで?」
「これも繋ぎだよ。本当はパン粉がいいんだけど、なかったから」
千切った食パンをフードプロセッサーに入れて、スイッチを押す。食パンがパン粉になるまで数秒、すぐにサラサラになった。瑛は生地をこねながら、作った生パン粉を加えていく。
「さっきの卵はお肉とタマネギを繋ぐためで、このパン粉は生地全体を繋ぐためのものだよ。穹ちゃんもやってみる?」
生地をこねることに対抗を感じなかった分けじゃないけど、なんでも瑛に任せていては意味がない。生地は思っていた以上に柔らかいけど、不思議と手にベタついてこない。これがパン粉の効果らしい。
「型を整える際は、俵型がいい感じだね。こんな風に両手で……」
「こ、こう?」
「そう、そんな感じ! 穹ちゃん、上手だよ」
褒められると、少しくすぐったくなる。瑛のと違って少しいびつだけど、はじめてにしては上出来だろう。
「型を整えたら、生地を寝かそうか? すぐに焼くことも出来るけど、生地を寝かせることで焼いたときに型くずれしにくくなるから」
その間なにをしてようかと瑛が訊ねてきたから、私は近くにあったティーセットに目をやって、
「お茶、飲む? 紅茶だけど」
「そうだね、じゃあ、ご馳走になろうかな。けど……」
珍しく、瑛が少し言いにくそうに言葉を漏らした。
「お茶菓子は、違うのがいいかな」
生地を寝かせている時間、私たちは紅茶を飲みながら過ごしている。瑛は私が出したアタリメを、やはり不思議そうに見つめながら食べている。
「穹ちゃんさ、前にも訊いたと思うけど、二人暮らしはどう? 大変じゃない?」
「慣れてきた、かな。まだ手探りな部分も多いけど……それに、大変なのは瑛だって」
「あたしは、長いから」
一言で切り捨てる瑛の顔は、笑っているけどつかみ所がないというか、妙な深みを持っていた。まるで、それ以上は踏み込んではいけないような、目には見えない心の壁。私がそれを感じ取れたのは、私も同じようなものを持っていたからで……
「長いだけが理由じゃないけど、昔から家事とかはしてきたから」
今でこそ一人暮らしをしている瑛も、昔は一緒に暮らしていた人がいて、神社の神主だったおじいさんが保護者だったらしい。私とハルの祖父母と同年代の高齢者だったため、手伝う意味も兼ねて自然に家事を憶えていったようだ。
「寂しくは、ないの?」
いつか、瑛に訊かれたことを訊ね返してみる。質問に、瑛は目を開いて答えた。
「寂しくはないかな。悲しいこと、寂しいこと、そういう気持ちを忘れる必要はないけど、それをずっと抱え込んだままなのは、ね」
「瑛……」
「あはー、でも、穹ちゃんとハルくんを見ていると、たまに羨ましいなとは思うよ。楽しいそうだなぁ、ラブラブだなぁって」
ハルの名前が出てきたことで、私はもう一つの質問をするべきかどうか考え始める。前々から一度訊いてみたかった、確認しておきたかったこと。けれど、それを投げかけてもいいのか、投げかけることで今の瑛との関係が壊れないか、私にはその心配があった。
だけど……
「瑛って、その」
穏やかな瑛の表情を見ていると、口から言葉が滑り落ちてしまう。
「ハルのこと、好きなの?」
思い切って、私は自分の抱いていた疑問を瑛にぶつけた。嫌いでないことは分かり切っているから、この場合の好きかどうかと言うのは、より深い意味での話だ。瑛の視線が私の視線と交錯し、私は目をそらしたくなる気分をグッと堪えた。
「……好きだよ、初恋の人だもん」
「――っ!?」
やっぱり、そうなんだ。瑛は以前から私とハルに好意的で、気を使ってくれている。それはただの友達というレベルを超えており、私は瑛がハルに特別な好意を抱いているのではないかと、この子の態度や発言から感じ取っていた。ハルはあの通り鈍いからともかくとして、周囲でも気付いているの私ぐらいだと思う。
「私は……」
瑛のことは嫌いじゃないし、どちらかと言えば好きな方だ。けれど、それはあくまで友人としてであって、瑛がハルの恋人になるのだとすれば、また話は違ってくる。
いや、そうじゃない。最大の問題は、私が〝瑛にならハルを渡しても構わないかも〟と、心のどこかで思っていることだろう。明るくて、元気で、家事も出来て、私なんかより、女の子としてずっと魅力がある。仮にハルが瑛と付き合うことになったら、私はそれに反対できるだろうか? 〝あの人〟のときとは違い、あまり自信がなかった。
「大丈夫だよ、穹ちゃん」
俯きながら悩む私の手に、瑛の手がそっと添えられた。
「あたしはハルくんが好きだけど、好きな人は他にも沢山いるから」
「えっ……?」
「亮兄ちゃんやカズちゃん、初佳さんやひろ姉ちゃん。あたしは、あたしの周りにいるみんなのことが好きなんだよ」
およそ人嫌いとは無縁な人生を送ってきたであろう瑛の言葉に、嘘偽りは感じられない。
「でも、その好きは」
「確かに、ハルくんに対する好きと、他の人に対する好きは、少しだけ違うのかも知れない」
けどね、穹ちゃん……と、瑛は言葉を続けていく。語りかけるように、穏やかな表情と口調で。
「ハルくんは穹ちゃんと一緒にいて幸せそうだし、穹ちゃんだってハルくんといて幸せなんでしょう? だったら、あたしもそれが一番嬉しいよ。だって私は――」
穹ちゃんのことも、大好きだから。
瑛の見せる優しさと温かさに、私は胸が熱くなるのを感じていた。
「人によっては、損な性格だって思われるのかも知れないし、言われたこともある。でも、あたしは自分のことを不幸だなんて感じたことは、一度もないから」
悲しいこと、辛いことはいくらでもあった。けれど、それ以上に嬉しいとか楽しいとか、
幸せだなぁと感じられることも、いっぱいあったから。
「だから、結構幸せだよ、あたしは」
瑛の言葉に、私は自分を当て嵌めて考えてみる。私も、他人から見れば十分に不幸な人生を歩んでいるだろう。小さい頃から病弱で、病院のベッドで過ごした時間が多く、やっと退院できたと思ったら、今度は事故で両親を失った。安楽な境遇とは言えないし、決して幸せとは呼べないだろう。
「でも、私にはハルがいる」
瑛が先ほど言ったかけがえのない友人たちに囲まれているように、私にはハルがいて、ハルには私がいた。心に似た部分を持っている私と瑛の、それは明確な違いだった。
「私も、幸せなのかな」
今までも、そしてこれからも、ハルが入り限り、私は幸せを失わずに済む。
私は瑛の方に視線を、すべてを理解している少女へと向ける。瑛は私に手を重ねたまま、言葉を紡いでいった。
「それでいいんだよ、穹ちゃん」
頷きながら、瑛は微笑む。それが心の底からの笑顔であることに、私は気付いた。
「ありがとう、瑛」
話を終えて、私たちはハンバーグ作りの最終段階、焼く作業に入った。
熱したフライパン、ステンレス製の場合は生地からでる油だけで焼けるため、特に油を引いたりはしないらしい。ここに成形した生地を入れ、フタをして焼き上げる。片面が焼けたらフライ返しでひっくり返して、両面をしっかりと焼く。好みでチーズを乗せたりするそうだけど、チーズがなかったのでそれはまた今度にしよう。
「そうだ、簡単なソースを作ろうか?」
同量の中濃ソースとケチャップを混ぜて、ハンバーグからでた肉汁を加える。この手作りソースをかけても美味しいとのことで、実際に食べるときに試してみようと思う。
添え物としては、なににしようか二人で考えて、じゃがいものバター焼きにした。ブロッコリーとかにんじんはあまり好きじゃなかったし、パスタがなかったので、パスタのケチャップ和えも作れなかったからだ。
「こんなものかなぁ。穹ちゃん、お皿の用意は出来た?」
生地は全部で四つほど成形したから、その内の一つを試食として食べることにした。お皿に盛りつけたハンバーグ、瑛と二人で作ったそれは、いい匂いを立てていた。
「うんうん、ちゃんと火も通ってるし、いい感じだね!」
ナイフで半分に切り分けて、火の通りを核にしたら、私たちはそれぞれフォークでハンバーグを食べてみる。
「美味しい……!」
一口噛みしめただけで、口の中に肉汁が広がってきた。崩れにくく、それでいて柔らかいハンバーグは、ビックリするほど美味しい
「穹ちゃんが作ったんだよ、これは」
「で、でも、私はなにも……ほとんど瑛が」
「違うよ、穹ちゃんがやってみたい、作ってみたいと思ったから、ここまでの物が出来たんだよ」
その気持ちが、大事なんだよ。
瑛はそういいながら、もう一口、実に美味しそうにハンバーグを頬張った。
残った三つの生地の内、二つは私とハルの夕飯用として、一つはラップに包んで瑛へと渡した。夕飯も一緒にどうかと誘ったけど、気を使ってくれたのか、断られてしまった。
「今日はありがとうね、穹ちゃん」
「? お礼を言うのは、私の方」
「ううん、誰かと一緒に料理をするのって凄く久しぶりだったから……本当に楽しかった。だから、ありがとう」
家に帰る瑛を玄関の外まで見送り、その姿が見えなくなるまで私は立っていた。気恥ずかしさが頬を熱くし、赤くする。瑛も私も、随分と踏み込んだ部分まで話したような気がする。けれどそれは、お互いにそこまで言えるだけの関係になれたと、そういうことだろう。
瑛は自分のことを幸せだと言った。私も、自分のことはそれほどまでに不幸ではないと思っている。重要なのはその点であり、今日一日で私が瑛から料理と共に学んだことだった。
瑛が帰り、しばらくしたらハルが帰ってきた。時刻は夕方と夜の間ぐらい、思っていたより少し早い。
「ハルっ!」
私は足取りをはずませて玄関まで駆けると、靴を脱ぎかけていたハルに向かって抱きついた。
「わっ、ちょっと、穹」
驚きながら、ハルは私のことをしっかりと抱き留めてくれる。手にはなにやら白い箱が握られており、どうやらお土産のケーキらしい。
「ハル、ご飯できてるけど、それとも先にお風呂に入る?」
「へっ? あぁ、それじゃあお風呂に……って、ご飯ができてる?」
既に夕飯の仕度ができていることに、ハルは心底驚いたらしい。私が自分で用意したと知ると、喜んだり感動したり、色々と忙しそうだった。
そんなハルを見つめながら、私は思う。
なるほど、私も結構幸せじゃないか、と。
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