佐藤竜雄がTwitterで、機動戦艦ナデシコについて語っていました。ナデシコも10年以上前の作品になってしまいましたが、映画化もされた作品だけ合って話題に出すだけで盛り上がりますよね。私は今も昔もスタチャっ子ですから、放送当時からナデシコについては知っていましたけど、実は思い入れが強いのは映画版の方だったりします。公開時に、スレイヤーズのついでに観たとき、その凄まじさに圧倒された覚えがあります。
結局、ナデシコという作品は映画版があったからこそなんじゃないかと思う。当時のアニメ界というのは全体的にエヴァを引きずっているところがあって、スタチャはガイナックスと一緒にそのエヴァを作ったところだったから、ナデシコまたエヴァの影響を受けた作品と思われることが多かった。ホシノ・ルリという所謂綾波系と言われるキャラクターのジャンルが確立されたのも、この辺りからだったしね。まあ、私はルリと綾波にはかなりキャラクターとしての差があると考えてるんだけど、企画段階からの変更を考えると多少の意識はあったのかも知れないと思う。
今でもエヴァ→ナデシコを一種の流れとして認識している人は沢山いるけど、それに対する佐藤竜雄の言葉は否定。企画段階において、エヴァという作品についていくことが出来なかったライトなアニメファン向けに作られたのがナデシコだという。確かに、エヴァは凄い作品ではあったけど、気楽にアニメを観たいという人にはやや敷居の高かった。私はアレにリアリティや現実味があるとか、哲学や心理学がどうのとか言う人を未だに理解出来ないけど、そうやって小難しく考えてる人が多かったんですよ。気軽さがないんだよね。
それに引き替えナデシコは、まあ、設定こそ膨大だったにせよ基本的にノリはギャグだったし、ライトなファン向けに作ったというのは納得がいく話です。女性から批判が多かったというキャラクター造形も、分かりやすい話を作る上では必要なことであり、そもそも女向けに作ったわけではないのだから、突き放すように言えば男のオタクが満足できればそれで良かったんではないかなと。結果的に、それで成功したわけだしね。
ただ、放送当時の評価が微妙だったというのは分かりますよ。私はあの頃のオタクとしては珍しく、エヴァが好きじゃない、興味ない、数話しか観たことがないという人間だったので肩の力を抜いて観ることの出来るナデシコを面白いと思ってはいましたが、心の底から熱中していたのかと言われると、首を傾げざるを得ない。O月Pは映画版のナデシコにシリアスな部分を望んだそうで、私もそれについては同意します。テレビ版が悪かったとは言わないけど、最後までギャグ系のノリだったことに首を傾げたこともあったから。
ナデシコという作品の大きな特徴として、ネット上でのSSが爆発的に流行したことが上げられると思います。90年代末期から00年代初頭というのはネットが普及し、全盛期と言われ始めていた頃であり、俗にいうWebでの二次創作活動というものが活発化し始めていた時期でもあったのです。今のように音楽や映像と言ったものはなかったけど、イラストや文章はある程度の知識と技術があれば誰でも個人HPや投降サイトなどに投下できるようになって、今も現存していますがナデシコはその手のSS投降サイトが結構多かったんですよ。その設定の豊富さやキャラの魅力に惹き込まれた人が沢山いたんでしょうかね、SSのジャンルとしてナデシコ以上に流行ったものは、後にも先にも存在しないでしょう。
だって、SSで流行した設定、例えばアキトとラピスの関係などが公式のものと誤解されて、それについての注釈がウィキペディアとかに書かれちゃうぐらいですからね。SSそれ自体に特定のジャンル、逆行モノというのが存在し、そこに至るまでの過程がパターン化されたのも、ボソン・ジャンプという特殊な設定を持つナデシコならではじゃないだろうか。
ちなみに誤解されているアキトとラピスの設定というのは、この2人が五感をリンクさせていると言うこと。これはラピスの役割が五感を失ったアキトのサポートであることと、監督だかのラピスがいればアキトはラーメンを作れるかもしれないという発言が根拠になってるんだけど、なにせ設定や情報があまり語られなかったキャラですからね。推測は出来ても、結論づけることが出来ないんですよ。おそらくそれに近い形ではあると思うんだけど、私はどちらかというと禁書の一方通行と妹たちの関係に近いんじゃないかなと思う。五感を失ったアキトをラピスがサポートするとして、ルリと同じく電子の妖精である彼女に出来ることといえば、その演算能力で身体的な部分を補うことではないだろうかと、そう考えていまして。感覚補助って奴ですね。
私は物書きだけど、何故かナデシコのSSには手を出したことがないんだよね。それなりにグッズや書籍も持っているものの、なんか世の中に溢れかえっているSS読むだけで良いかなと。中二病全快な作品ばっかりだけど、まあ、それも文化だよ。オリキャラ前提の風潮が多いのに私は眉を顰めないでもないけど、放送から10年経って未だに作品が書き続けられるのは凄いことだと思うし。
ナデシコは続編の制作が不可能になったと明言されていますけど、続編と言っても映画版の次が出るとは限りません。映画の次はDCで出たゲームになりますし、それ以降に話を膨らませることは、やろうと思えば出来るのかも知れないけど、ちょっと無理があると思う。いきなり古代火星人が襲来して大戦争とか、そういう超展開をやるならまだしも、地球と木星、その裏で暗躍していたテロリストも一応劇場版とゲームで一掃されたわけだし、これ以上なにを続けるのって話で。
だから、続編を作るのならテレビ版の延長線にある、例えば空白の3年間とか、ノベライズで語られた部分と、語られなかった部分の映像化が一番良いんじゃないだろうか。アキトとユリカが死ぬまでを1クールぐらいで書いて、残りでルリがサブロウタに出会って軍に復帰するまでと、アキトが救出されラピスを助け、復讐者としての道を歩み続ける姿を描くとかさ。
私の個人的趣味で言うと、一番好きなキャラはルリルリですが、カップリングならアキト×ラピスです。SSによって作られたラピス像が絶対的に正しいとは思っていないけど、私は後から出てきた少女というのに弱いのでね。スパロボじゃあるまいし、アキトが表舞台に戻ってくることはないんだから、このままラピスと、どこまでも戦い続けるのが良いのですよ。光ある場所へ戻るには、彼は少し人を殺しすぎたから。
思っていた以上に長文になってしまいましたが、この程度の思い入れはあるってことなのかな。世間の評判がどうであれ、私にとっての大切な作品であることには変わりありませんし、色々な意味で続編を望んでいることに違いはない。
結局、ナデシコという作品は映画版があったからこそなんじゃないかと思う。当時のアニメ界というのは全体的にエヴァを引きずっているところがあって、スタチャはガイナックスと一緒にそのエヴァを作ったところだったから、ナデシコまたエヴァの影響を受けた作品と思われることが多かった。ホシノ・ルリという所謂綾波系と言われるキャラクターのジャンルが確立されたのも、この辺りからだったしね。まあ、私はルリと綾波にはかなりキャラクターとしての差があると考えてるんだけど、企画段階からの変更を考えると多少の意識はあったのかも知れないと思う。
今でもエヴァ→ナデシコを一種の流れとして認識している人は沢山いるけど、それに対する佐藤竜雄の言葉は否定。企画段階において、エヴァという作品についていくことが出来なかったライトなアニメファン向けに作られたのがナデシコだという。確かに、エヴァは凄い作品ではあったけど、気楽にアニメを観たいという人にはやや敷居の高かった。私はアレにリアリティや現実味があるとか、哲学や心理学がどうのとか言う人を未だに理解出来ないけど、そうやって小難しく考えてる人が多かったんですよ。気軽さがないんだよね。
それに引き替えナデシコは、まあ、設定こそ膨大だったにせよ基本的にノリはギャグだったし、ライトなファン向けに作ったというのは納得がいく話です。女性から批判が多かったというキャラクター造形も、分かりやすい話を作る上では必要なことであり、そもそも女向けに作ったわけではないのだから、突き放すように言えば男のオタクが満足できればそれで良かったんではないかなと。結果的に、それで成功したわけだしね。
ただ、放送当時の評価が微妙だったというのは分かりますよ。私はあの頃のオタクとしては珍しく、エヴァが好きじゃない、興味ない、数話しか観たことがないという人間だったので肩の力を抜いて観ることの出来るナデシコを面白いと思ってはいましたが、心の底から熱中していたのかと言われると、首を傾げざるを得ない。O月Pは映画版のナデシコにシリアスな部分を望んだそうで、私もそれについては同意します。テレビ版が悪かったとは言わないけど、最後までギャグ系のノリだったことに首を傾げたこともあったから。
ナデシコという作品の大きな特徴として、ネット上でのSSが爆発的に流行したことが上げられると思います。90年代末期から00年代初頭というのはネットが普及し、全盛期と言われ始めていた頃であり、俗にいうWebでの二次創作活動というものが活発化し始めていた時期でもあったのです。今のように音楽や映像と言ったものはなかったけど、イラストや文章はある程度の知識と技術があれば誰でも個人HPや投降サイトなどに投下できるようになって、今も現存していますがナデシコはその手のSS投降サイトが結構多かったんですよ。その設定の豊富さやキャラの魅力に惹き込まれた人が沢山いたんでしょうかね、SSのジャンルとしてナデシコ以上に流行ったものは、後にも先にも存在しないでしょう。
だって、SSで流行した設定、例えばアキトとラピスの関係などが公式のものと誤解されて、それについての注釈がウィキペディアとかに書かれちゃうぐらいですからね。SSそれ自体に特定のジャンル、逆行モノというのが存在し、そこに至るまでの過程がパターン化されたのも、ボソン・ジャンプという特殊な設定を持つナデシコならではじゃないだろうか。
ちなみに誤解されているアキトとラピスの設定というのは、この2人が五感をリンクさせていると言うこと。これはラピスの役割が五感を失ったアキトのサポートであることと、監督だかのラピスがいればアキトはラーメンを作れるかもしれないという発言が根拠になってるんだけど、なにせ設定や情報があまり語られなかったキャラですからね。推測は出来ても、結論づけることが出来ないんですよ。おそらくそれに近い形ではあると思うんだけど、私はどちらかというと禁書の一方通行と妹たちの関係に近いんじゃないかなと思う。五感を失ったアキトをラピスがサポートするとして、ルリと同じく電子の妖精である彼女に出来ることといえば、その演算能力で身体的な部分を補うことではないだろうかと、そう考えていまして。感覚補助って奴ですね。
私は物書きだけど、何故かナデシコのSSには手を出したことがないんだよね。それなりにグッズや書籍も持っているものの、なんか世の中に溢れかえっているSS読むだけで良いかなと。中二病全快な作品ばっかりだけど、まあ、それも文化だよ。オリキャラ前提の風潮が多いのに私は眉を顰めないでもないけど、放送から10年経って未だに作品が書き続けられるのは凄いことだと思うし。
ナデシコは続編の制作が不可能になったと明言されていますけど、続編と言っても映画版の次が出るとは限りません。映画の次はDCで出たゲームになりますし、それ以降に話を膨らませることは、やろうと思えば出来るのかも知れないけど、ちょっと無理があると思う。いきなり古代火星人が襲来して大戦争とか、そういう超展開をやるならまだしも、地球と木星、その裏で暗躍していたテロリストも一応劇場版とゲームで一掃されたわけだし、これ以上なにを続けるのって話で。
だから、続編を作るのならテレビ版の延長線にある、例えば空白の3年間とか、ノベライズで語られた部分と、語られなかった部分の映像化が一番良いんじゃないだろうか。アキトとユリカが死ぬまでを1クールぐらいで書いて、残りでルリがサブロウタに出会って軍に復帰するまでと、アキトが救出されラピスを助け、復讐者としての道を歩み続ける姿を描くとかさ。
私の個人的趣味で言うと、一番好きなキャラはルリルリですが、カップリングならアキト×ラピスです。SSによって作られたラピス像が絶対的に正しいとは思っていないけど、私は後から出てきた少女というのに弱いのでね。スパロボじゃあるまいし、アキトが表舞台に戻ってくることはないんだから、このままラピスと、どこまでも戦い続けるのが良いのですよ。光ある場所へ戻るには、彼は少し人を殺しすぎたから。
思っていた以上に長文になってしまいましたが、この程度の思い入れはあるってことなのかな。世間の評判がどうであれ、私にとっての大切な作品であることには変わりありませんし、色々な意味で続編を望んでいることに違いはない。
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