なんか最近、日記の文章が全然面白くない気がする。色合いが鮮やかじゃなくて淀んでいるというか、悲恋堂の店主に見透かされたんだけど、書いている私自身が欠片も楽しんでないのが見え見えなんですよね。別に日記を書きたくないわけじゃないし、むしろ趣味の一つでもあるんだけど、このところどうも上手くいかない。個人的に納得のいく面白みのある文章を書くことが出来ない。単純に溜め込んでいるのを一気に更新している反動なのか、それとも別の理由なのか。
随分昔の話になるけど、川崎ヒロユキが「小説と脚本を書くのでは使う筋肉が違う」と言っていました。川崎ヒロユキといえばアニメ業界を代表する脚本家の一人で、小山門下はあかほりさとると同期の人ですね。あかほりが小説家としての一面が強いのに比べて、川崎の方はどちらかと言えば脚本家としての印象が強い。勿論、ノベライズはいくつか書いてきたし、作家としての活動はしてなかったわけじゃないんだけど、本格的なものは初のオリジナル作品である「はっぴぃセブン」になるでしょう。漫画化やドラマCD化もされたメディアミックス作品なので知っている人も多いかと思いますけど、80年代から業界で脚本書いてきた人が、00年代になってやっと自分の作品を世に出すことが出来たわけです。
で、晴れて小説家としてもデビューした川崎ヒロユキなわけだけど、ベテラン脚本家がイコールで名作家に成り得るかというと、決してそんなわけでもないんだよね。これは本人が言ってたことだが、最初の頃はとにかく切り替えが難しかったらしい。脚本と小説は当然違うものであり、同じように書くなんてことが出来ないわけですから、脚本には脚本の、小説には小説の書き方ってものがある。つまり、同じ書くという作業を行っているのも関わらず、書いているものはまるで違うという状況なわけです。簡単な例を出せば、手紙と読書感想文じゃ考えることも、書き方も、すべてが違うでしょう? それと同じで、創作物という共通点はあっても、思考パターンや文章構成などが大きく異なるのです。故に使う筋肉も必然的に違うものとなり、味わう痛みにも差があるというわけ。
作家兼脚本家というのは数が少ないわけじゃないけど、この二つを上手く両立できた人なんて、それこそあかほりさとると神坂一の両名しかいません。後者は映画限定だけど、前者に至っては、自分の小説の構成を自分で行い、あかほり作品と呼ばれるブームを作り上げたほどですし、90年代に限っていえば確かに一時代築いていたと思う。輝かしかったかは、ともかくとしてね。
あかほりさとるという人は自称外道であるように、基本的にいい性格をしているおっさんです。その評価は仲間内の小山門下生からも分かれるものだったらしいく、本人から聞いた話によると劣等生だったとかで、当時は物書きというものを甘く見ていた自分がいたことを思い知らされたとか言ってったっけ。それがなんだかんだで業界を代表する作家、小説家になり、有り体にいえば大成功してしまったわけだから、割と性格が歪んでしまったとか。言われるまでもなく真人間には見えないけど、同業者に喧嘩売るような酷い発言も平気でいう人なので、私としては微妙な人物だったりする。それでも自分は権力を持っているから大丈夫なんだと言い切れる辺り、さすがだとは思うけど。
私はあかほり門下じゃないけど、門下生には知り合いがいて、所謂あかほりシスターズと呼ばれる女性陣ですね。代表格は菜の花こねこだろうけど、あの人は基本的に女しか弟子に取らないんだ。理由として、男より女のほうが根性あるからという話だけど、本当かよと疑ったのは内緒。まあ、そんな弟子たちは最終的にポストあかほりの位置を狙っているわけだけど、私はあかほりさとるは一代の傑物だつ思っているから、後釜に収まるのは無理だと考えてます。
つまり、なにが言いたいのかというと、私が最近日記を上手くかけていないのは、原稿の執筆ばかりしているせいで切り替えが上手くできていなんじゃないだろうか? という、もっともらしい言い訳をですね……まあ、違うだろうけどさ。この業界、なんでもできるタイプってのは嫌われる傾向にありますけど、小説と日記の書き分けも出来ないというのは、それ以前の問題だと思う。だから、少なくともこの2つは両立できるようにしなくちゃ、やってられないですね。商業で脚本の仕事をしているときに小説が書けなくなることは今までも多々あったけど、なんとか乗り越えて成長してきたいものです。
随分昔の話になるけど、川崎ヒロユキが「小説と脚本を書くのでは使う筋肉が違う」と言っていました。川崎ヒロユキといえばアニメ業界を代表する脚本家の一人で、小山門下はあかほりさとると同期の人ですね。あかほりが小説家としての一面が強いのに比べて、川崎の方はどちらかと言えば脚本家としての印象が強い。勿論、ノベライズはいくつか書いてきたし、作家としての活動はしてなかったわけじゃないんだけど、本格的なものは初のオリジナル作品である「はっぴぃセブン」になるでしょう。漫画化やドラマCD化もされたメディアミックス作品なので知っている人も多いかと思いますけど、80年代から業界で脚本書いてきた人が、00年代になってやっと自分の作品を世に出すことが出来たわけです。
で、晴れて小説家としてもデビューした川崎ヒロユキなわけだけど、ベテラン脚本家がイコールで名作家に成り得るかというと、決してそんなわけでもないんだよね。これは本人が言ってたことだが、最初の頃はとにかく切り替えが難しかったらしい。脚本と小説は当然違うものであり、同じように書くなんてことが出来ないわけですから、脚本には脚本の、小説には小説の書き方ってものがある。つまり、同じ書くという作業を行っているのも関わらず、書いているものはまるで違うという状況なわけです。簡単な例を出せば、手紙と読書感想文じゃ考えることも、書き方も、すべてが違うでしょう? それと同じで、創作物という共通点はあっても、思考パターンや文章構成などが大きく異なるのです。故に使う筋肉も必然的に違うものとなり、味わう痛みにも差があるというわけ。
作家兼脚本家というのは数が少ないわけじゃないけど、この二つを上手く両立できた人なんて、それこそあかほりさとると神坂一の両名しかいません。後者は映画限定だけど、前者に至っては、自分の小説の構成を自分で行い、あかほり作品と呼ばれるブームを作り上げたほどですし、90年代に限っていえば確かに一時代築いていたと思う。輝かしかったかは、ともかくとしてね。
あかほりさとるという人は自称外道であるように、基本的にいい性格をしているおっさんです。その評価は仲間内の小山門下生からも分かれるものだったらしいく、本人から聞いた話によると劣等生だったとかで、当時は物書きというものを甘く見ていた自分がいたことを思い知らされたとか言ってったっけ。それがなんだかんだで業界を代表する作家、小説家になり、有り体にいえば大成功してしまったわけだから、割と性格が歪んでしまったとか。言われるまでもなく真人間には見えないけど、同業者に喧嘩売るような酷い発言も平気でいう人なので、私としては微妙な人物だったりする。それでも自分は権力を持っているから大丈夫なんだと言い切れる辺り、さすがだとは思うけど。
私はあかほり門下じゃないけど、門下生には知り合いがいて、所謂あかほりシスターズと呼ばれる女性陣ですね。代表格は菜の花こねこだろうけど、あの人は基本的に女しか弟子に取らないんだ。理由として、男より女のほうが根性あるからという話だけど、本当かよと疑ったのは内緒。まあ、そんな弟子たちは最終的にポストあかほりの位置を狙っているわけだけど、私はあかほりさとるは一代の傑物だつ思っているから、後釜に収まるのは無理だと考えてます。
つまり、なにが言いたいのかというと、私が最近日記を上手くかけていないのは、原稿の執筆ばかりしているせいで切り替えが上手くできていなんじゃないだろうか? という、もっともらしい言い訳をですね……まあ、違うだろうけどさ。この業界、なんでもできるタイプってのは嫌われる傾向にありますけど、小説と日記の書き分けも出来ないというのは、それ以前の問題だと思う。だから、少なくともこの2つは両立できるようにしなくちゃ、やってられないですね。商業で脚本の仕事をしているときに小説が書けなくなることは今までも多々あったけど、なんとか乗り越えて成長してきたいものです。
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