最近、身内との仲が壊滅的に悪くなった。私とあの落ちぶれた天才の間には、常に緊張感みたいのがあって、傍目に仲良くしているように見えても、いつ千切れるかも分からない吊り橋の上に乗っているかのような関係だった。吊り橋を落とす方法はいくらでもある。自然に千切れるのを待ってもいいし、自ら斧を振り上げ叩き斬ってもいい。むしろ爆弾でも使って跡形もなくしてしまえば、そもそも橋があったことすら過去にできてしまう。お互い、導火線はずっと握っていたわけだしね。昨日、友人は大切にしようなんて内容を書いておいてあれだけど、私と身内はいよいよダメっぽいです。まあ、それもまたいいのかな。何故ならあの人は、私の身内であっても友人ではないのだから。
生き方が違う人間、思想や考え、理念や信念が違う人間と話すことは難しい。相手はこちらを理解しないどころか、理解したくないとさえ思っているから、端から話が通じない、聞こうとしない。私は、私の考えや感性が導きだした結論として、身内の生き方を全面的に否定して、あの人のやったことを断じた。それが間違っているとは思わないし、誰かが言わなければいけないことだったのは事実だ。
あの人は私のことを精神論の塊だと表現していたけど、それは多分間違ってない。私は確かに根拠のない自信と精神論で物事を乗り切り、流れに身を任せて生きてきてた男だけど、完璧主義者のあの人にはそういうのは理解出来ないのだろう。だけど、私に言わせれば精神論の一つも振りかざすことの出来ない、あの人のそうしたところが一欠片も理解出来ないし、したくもない。あの人は常に理論的で、現実主義者だ。出来ないことは出来ないし、やれないことはやらない。自分で自分の上限を測り、それ以上のことは絶対にしない。自分でそれは不可能だと思った時点で、成し遂げることを放棄してしまう。つまり、挑戦することがないのだ。あの人に限界の先は存在せず、常に限界の一歩手前で立ち止まっては、自分の才能と実力の許す範囲で完璧な仕事をする。それは果たしていいことなのだろうか?
私の周囲、つまりは親のことだが、そういった人達は身内の才能を認めている。あの人が有能であり、天才だったことを信じている。だからなにかあれば、いつも頼るのは私ではなくあの人の方だ。それに不満を覚えたことがないといえば嘘になるが、しかし、それは錯覚に過ぎないのだ。完璧主義者の、生真面目な天才などというものは、どこにも存在しなかった。誰もそれに、気付いてなどいなかったが。
あの人は自分で責任を取るということを知らない。いや、知ってはいるのだろうが、自分がそれをするということが理解出来ない。何故ならあの人にとって、責任とはいつも自分でない誰かにあるもので、自分が悪いことをしたとは露程にも思っていないからだ。あのときもこのときも、どのときだって悪いのは他人。私は言われたからやっただけ、脅されたから仕方なく、私は嫌だって言ったもの……そんなことを繰り返していたら、あの人は誰に対しても謝るということをしなくなってしまった。行為そのものを忘れたわけじゃない、ただ、謝るということは自分の非を認めることであり、それはなにかに対する責任を果たすことになってしまう。だからあの人はどんなことがあっても他人に対して謝らないし、頭を下げることを絶対にしない。いつだって自分は被害者で、可哀想で、周りはそんな私をいじめる無理解な人たち。
私はそんなあの人にとって、基本的には味方のつもりだった。あの人は理不尽を超えた傍若無人な存在であったが、自分が異常者であることは自覚しており、認識もしていた。けれど、親という存在がそれを認めなかったのだ。まあ、気持ちは分からないでもない。お腹を痛めて産んだ子供が、頭のイカレタ奴だったなんて、普通の親ならば認めたくない事実であろう。しかもそれが、誰からも賞賛されていたかつての天才であれば尚更のことだ。今は精神的に不調でも、やれば出来る子なんだから大丈夫。そんな甘い考えが、現実を見つめない逃げの思考が、すべてを手遅れにしてしまった。
自分から、そう、あの人が自分から医学の力に頼ろうとしたときも、親はそれを理解しようとはしなかった。親があの人のことを、「少し変わっているだけで、医者なんて必要ない」と言ったとき、私は実の親に対して正気を疑ってしまった。本人が限界を感じ、有り体に言えば観念したというのに、親はまだそんなことを言っていたのである。甘いどころの騒ぎでも、現実から目を背けているどころの騒ぎではない。つまるところ、真実から逃げようとしていたのだ。自分の子供が異常者である、精神病の類であるということから。
何故、私がこの期に及んで身内の、あの人の味方をしたかといえば、これが最後のチャンスかと思ったからだ。私は心療内科や精神科がもたらす効果の程は知らなかったが、多少なりともマシになるのではないかと、期待をしていたのだろう。それがあの人に対して、最も抱いてはいけない感情だということを忘れながら。
認めたがらない親を説得し、説明し、あの人の壊れかかった精神を維持させて、先月の私は本当に色々なことをしたと思う。結果に対する不安はあったが、それでも私以外、間に立つことのできる人間はいなかったのだ。あの人は毛ほどにも感謝などしていないだろうし、私が色々と便宜を計った事実さえも認識していない。親にしても、今にして思えば余計なことをしやがってと、そんな感じだろう。前者はともかく、後者は確かにと自分でも納得してしまうからたちが悪い。
結果として、医者などなんの役に持たなかった。勿論、通院を続ければ多少は違っていたのかも知れないが、そもそもの話、あの人は自分の精神異常を改善する気など欠片もなかったのだ。あの人が欲しかったのは、病人であるという弱点であり、それを得るために短い間隔で医者を取っ換え引っ換えしては、自分が重病であることをアピールした。何故そのようなことをしたのか? 弱点があったほうが、便利だからですよ。弱点さえあれば、病名のある病気にさえなれば、今度はそれのせいにすることが出来る、責任を擦り付けられる。そんな病気にかかるほうが悪い? あの人をその病気にしたのは誰か、尋ねればいくらでも答えは返って来るでしょうよ。あの人は一から十まで自分の意志で行ったことでさえ、他人の意思が介在していたことに出来るんです。それに掛けては、確かに天才なのかも知れないけど。
先日、あの人のプライドがズタズタになる事件が起こりました。要するに世間は家族や親戚ほど優しくはないという話で、完璧主義者が行ったはずの仕事は、一欠片も完璧などではなく、通院や投薬による無駄な治療があの人の力そのものを鈍らせ、堕落させてしまったのです。そして、そんな事実を社会が知るわけがない。あの人の過去を社会が考慮するはずもない。なんの役にも立たない役立たずと、レッテルではない烙印を押されたあの人は、本当に惨めだった。精神の均衡は怒りや動揺でぐちゃぐちゃになり、かつて存在していた天才は、完全に消滅したのでした。
私はその時点では、まだあの人を見捨ててはいなかった。役立たずの烙印を押された凡人以下が、自らを奮い立たせ、再び天才に立ち戻ろうとする姿を想像した。例え身内でなくとも、このような状況で人がすることは再起を図ることだからだ。でも、あの人はそれをしなかった。怒りは悲しみと違って醒めるのが早い。首を切られる寸前であったあの人は、あろうことかそんな自分の立場を受け入れてしまおうとしたのだ。自らは行動を起こさず、切られることを前提とした、それは自虐だった。正直な話、私も身内には後どころか先がないと思った。既に精神的にも肉体的にもボロボロで、使いものにならないというのは事実だったからだ。それを理解せずに、「今回は仕方なかった」などとほざいているのは親ぐらいで、まんまと身内の策略に乗せられていたのである。
しかし、ここで身内にとって大誤算が起こった。あの人は自分の首は切られるものだと考えていたし、私もそうなるだろうと思い込んでいた。あの人は病気という最大の弱点を武器に、今回もそれに責任を擦り付けられるつもりだった。首が切られば、そうなることは間違いなかったのだ。
そう、実際に首は切られなかった。考えても見れば、私や家族にとっては十年以上付き合ってきた身内の異常さも、相手からすれば今回が初めてのことであり、一度ぐらいは温情の手を差し伸べても、不思議はなかったのかも知れない。兎にも角にも、相手は切るはずだった首をそのままに、身内のことを助けてやろうとした。休養を取らせ、残り僅かな期間を頑張らせようと、配慮までしてくれたのだ。
でも、身内はその手を払った。なにがなんでも取らなければいけない、握り返さなければいけなかった、外からの救いの手を、自分自身で振り払ったのだ。理由は、体調が万全ではなかったから……
私が本当の意味で身内を見限り、見捨てようと決意したのはまさにこの瞬間だったのかも知れない。行われた激しい口論も、所詮は無意味なものでしかなかった。前述の通り、根底たる考え方が違うのだ。生きること、社会生活を営むことの意味を、あの人は欠片も理解していない。あの人はひたすら現実と過去を彷徨い、先を見ようとはしないのだ。今に嫌気が挿せば昔という名の殻に閉じこもり、将来や未来のことなど想像すらしない。親も家族も、永遠でないという事実を無視し続けながら、自分の為だけに生き続けているのだ。
あの人が体調が悪いという理由で差し伸べられた手を払ったとき、私は嘘を付いてでも、自らを奮い立たせて腕をつかむべきだったと主張した。日常生活も困難なほど重症ないし重病ならまだしも、傍目に見てどこが悪いのかさえ分からなかったからだ。けれど、親は体調が万全じゃないというあの人の言葉を信じた。そして、「真面目だから嘘がつけなかったのだ」と、最後まであの人のことを擁護していた。私はどうすればよかったのだろうか? 親を殴り飛ばして、目を覚まさせるべきだったのだろうか? 今更言っても遅いことだけど、そうした方が良かったのかも知れない。
今回の件で私が身内に対する敵となって、あの人に対して牙を剥いたとき、一番焦っていたのはあの人ではなく親だった。それまでは常識的な親として、あの人に最低限の小言や説教を行っていたはずの親が、それから常に庇っていたはずの私が、親の100倍に近い勢いで事実、現実、真実を付きつけ始めたら、私を怒鳴り散らしてあの人を擁護し始めた。理由は単純だ。私にはまだ、話が通じるのだ。異常者であるあの人は他人からなにを言われても堪えることはないが、私はまだしも普通だったから……
実に情けない話だが、これはすべて先日起こった、現実の出来ことでしかない。私はそこから逃げることも許されず、調停者としての責務を押し付けられて生きているのである。
生き方が違う人間、思想や考え、理念や信念が違う人間と話すことは難しい。相手はこちらを理解しないどころか、理解したくないとさえ思っているから、端から話が通じない、聞こうとしない。私は、私の考えや感性が導きだした結論として、身内の生き方を全面的に否定して、あの人のやったことを断じた。それが間違っているとは思わないし、誰かが言わなければいけないことだったのは事実だ。
あの人は私のことを精神論の塊だと表現していたけど、それは多分間違ってない。私は確かに根拠のない自信と精神論で物事を乗り切り、流れに身を任せて生きてきてた男だけど、完璧主義者のあの人にはそういうのは理解出来ないのだろう。だけど、私に言わせれば精神論の一つも振りかざすことの出来ない、あの人のそうしたところが一欠片も理解出来ないし、したくもない。あの人は常に理論的で、現実主義者だ。出来ないことは出来ないし、やれないことはやらない。自分で自分の上限を測り、それ以上のことは絶対にしない。自分でそれは不可能だと思った時点で、成し遂げることを放棄してしまう。つまり、挑戦することがないのだ。あの人に限界の先は存在せず、常に限界の一歩手前で立ち止まっては、自分の才能と実力の許す範囲で完璧な仕事をする。それは果たしていいことなのだろうか?
私の周囲、つまりは親のことだが、そういった人達は身内の才能を認めている。あの人が有能であり、天才だったことを信じている。だからなにかあれば、いつも頼るのは私ではなくあの人の方だ。それに不満を覚えたことがないといえば嘘になるが、しかし、それは錯覚に過ぎないのだ。完璧主義者の、生真面目な天才などというものは、どこにも存在しなかった。誰もそれに、気付いてなどいなかったが。
あの人は自分で責任を取るということを知らない。いや、知ってはいるのだろうが、自分がそれをするということが理解出来ない。何故ならあの人にとって、責任とはいつも自分でない誰かにあるもので、自分が悪いことをしたとは露程にも思っていないからだ。あのときもこのときも、どのときだって悪いのは他人。私は言われたからやっただけ、脅されたから仕方なく、私は嫌だって言ったもの……そんなことを繰り返していたら、あの人は誰に対しても謝るということをしなくなってしまった。行為そのものを忘れたわけじゃない、ただ、謝るということは自分の非を認めることであり、それはなにかに対する責任を果たすことになってしまう。だからあの人はどんなことがあっても他人に対して謝らないし、頭を下げることを絶対にしない。いつだって自分は被害者で、可哀想で、周りはそんな私をいじめる無理解な人たち。
私はそんなあの人にとって、基本的には味方のつもりだった。あの人は理不尽を超えた傍若無人な存在であったが、自分が異常者であることは自覚しており、認識もしていた。けれど、親という存在がそれを認めなかったのだ。まあ、気持ちは分からないでもない。お腹を痛めて産んだ子供が、頭のイカレタ奴だったなんて、普通の親ならば認めたくない事実であろう。しかもそれが、誰からも賞賛されていたかつての天才であれば尚更のことだ。今は精神的に不調でも、やれば出来る子なんだから大丈夫。そんな甘い考えが、現実を見つめない逃げの思考が、すべてを手遅れにしてしまった。
自分から、そう、あの人が自分から医学の力に頼ろうとしたときも、親はそれを理解しようとはしなかった。親があの人のことを、「少し変わっているだけで、医者なんて必要ない」と言ったとき、私は実の親に対して正気を疑ってしまった。本人が限界を感じ、有り体に言えば観念したというのに、親はまだそんなことを言っていたのである。甘いどころの騒ぎでも、現実から目を背けているどころの騒ぎではない。つまるところ、真実から逃げようとしていたのだ。自分の子供が異常者である、精神病の類であるということから。
何故、私がこの期に及んで身内の、あの人の味方をしたかといえば、これが最後のチャンスかと思ったからだ。私は心療内科や精神科がもたらす効果の程は知らなかったが、多少なりともマシになるのではないかと、期待をしていたのだろう。それがあの人に対して、最も抱いてはいけない感情だということを忘れながら。
認めたがらない親を説得し、説明し、あの人の壊れかかった精神を維持させて、先月の私は本当に色々なことをしたと思う。結果に対する不安はあったが、それでも私以外、間に立つことのできる人間はいなかったのだ。あの人は毛ほどにも感謝などしていないだろうし、私が色々と便宜を計った事実さえも認識していない。親にしても、今にして思えば余計なことをしやがってと、そんな感じだろう。前者はともかく、後者は確かにと自分でも納得してしまうからたちが悪い。
結果として、医者などなんの役に持たなかった。勿論、通院を続ければ多少は違っていたのかも知れないが、そもそもの話、あの人は自分の精神異常を改善する気など欠片もなかったのだ。あの人が欲しかったのは、病人であるという弱点であり、それを得るために短い間隔で医者を取っ換え引っ換えしては、自分が重病であることをアピールした。何故そのようなことをしたのか? 弱点があったほうが、便利だからですよ。弱点さえあれば、病名のある病気にさえなれば、今度はそれのせいにすることが出来る、責任を擦り付けられる。そんな病気にかかるほうが悪い? あの人をその病気にしたのは誰か、尋ねればいくらでも答えは返って来るでしょうよ。あの人は一から十まで自分の意志で行ったことでさえ、他人の意思が介在していたことに出来るんです。それに掛けては、確かに天才なのかも知れないけど。
先日、あの人のプライドがズタズタになる事件が起こりました。要するに世間は家族や親戚ほど優しくはないという話で、完璧主義者が行ったはずの仕事は、一欠片も完璧などではなく、通院や投薬による無駄な治療があの人の力そのものを鈍らせ、堕落させてしまったのです。そして、そんな事実を社会が知るわけがない。あの人の過去を社会が考慮するはずもない。なんの役にも立たない役立たずと、レッテルではない烙印を押されたあの人は、本当に惨めだった。精神の均衡は怒りや動揺でぐちゃぐちゃになり、かつて存在していた天才は、完全に消滅したのでした。
私はその時点では、まだあの人を見捨ててはいなかった。役立たずの烙印を押された凡人以下が、自らを奮い立たせ、再び天才に立ち戻ろうとする姿を想像した。例え身内でなくとも、このような状況で人がすることは再起を図ることだからだ。でも、あの人はそれをしなかった。怒りは悲しみと違って醒めるのが早い。首を切られる寸前であったあの人は、あろうことかそんな自分の立場を受け入れてしまおうとしたのだ。自らは行動を起こさず、切られることを前提とした、それは自虐だった。正直な話、私も身内には後どころか先がないと思った。既に精神的にも肉体的にもボロボロで、使いものにならないというのは事実だったからだ。それを理解せずに、「今回は仕方なかった」などとほざいているのは親ぐらいで、まんまと身内の策略に乗せられていたのである。
しかし、ここで身内にとって大誤算が起こった。あの人は自分の首は切られるものだと考えていたし、私もそうなるだろうと思い込んでいた。あの人は病気という最大の弱点を武器に、今回もそれに責任を擦り付けられるつもりだった。首が切られば、そうなることは間違いなかったのだ。
そう、実際に首は切られなかった。考えても見れば、私や家族にとっては十年以上付き合ってきた身内の異常さも、相手からすれば今回が初めてのことであり、一度ぐらいは温情の手を差し伸べても、不思議はなかったのかも知れない。兎にも角にも、相手は切るはずだった首をそのままに、身内のことを助けてやろうとした。休養を取らせ、残り僅かな期間を頑張らせようと、配慮までしてくれたのだ。
でも、身内はその手を払った。なにがなんでも取らなければいけない、握り返さなければいけなかった、外からの救いの手を、自分自身で振り払ったのだ。理由は、体調が万全ではなかったから……
私が本当の意味で身内を見限り、見捨てようと決意したのはまさにこの瞬間だったのかも知れない。行われた激しい口論も、所詮は無意味なものでしかなかった。前述の通り、根底たる考え方が違うのだ。生きること、社会生活を営むことの意味を、あの人は欠片も理解していない。あの人はひたすら現実と過去を彷徨い、先を見ようとはしないのだ。今に嫌気が挿せば昔という名の殻に閉じこもり、将来や未来のことなど想像すらしない。親も家族も、永遠でないという事実を無視し続けながら、自分の為だけに生き続けているのだ。
あの人が体調が悪いという理由で差し伸べられた手を払ったとき、私は嘘を付いてでも、自らを奮い立たせて腕をつかむべきだったと主張した。日常生活も困難なほど重症ないし重病ならまだしも、傍目に見てどこが悪いのかさえ分からなかったからだ。けれど、親は体調が万全じゃないというあの人の言葉を信じた。そして、「真面目だから嘘がつけなかったのだ」と、最後まであの人のことを擁護していた。私はどうすればよかったのだろうか? 親を殴り飛ばして、目を覚まさせるべきだったのだろうか? 今更言っても遅いことだけど、そうした方が良かったのかも知れない。
今回の件で私が身内に対する敵となって、あの人に対して牙を剥いたとき、一番焦っていたのはあの人ではなく親だった。それまでは常識的な親として、あの人に最低限の小言や説教を行っていたはずの親が、それから常に庇っていたはずの私が、親の100倍に近い勢いで事実、現実、真実を付きつけ始めたら、私を怒鳴り散らしてあの人を擁護し始めた。理由は単純だ。私にはまだ、話が通じるのだ。異常者であるあの人は他人からなにを言われても堪えることはないが、私はまだしも普通だったから……
実に情けない話だが、これはすべて先日起こった、現実の出来ことでしかない。私はそこから逃げることも許されず、調停者としての責務を押し付けられて生きているのである。
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