私は、ここにいるのだから
2011年3月19日 アニメ・マンガ久しぶりの更新なので、なにを書いていいのかよく分からないのですが、とりあえず生きてます。まあ、先週の地震からこっち本当に色々なことがあって、日記を更新するどころか日常生活を営むことすら難しい状態にあったんですが、仕事の方も落ち着きを取り戻し始めたし、なにより生存を確認するメールまで来たので、そろそろ書いてみようかなと。私自身は横浜住まいなので地震による被害らしい被害は受けなかったんですが、職場は都内なので帰宅難民にはなりました。だって、都内を走る在来線が全部運休なんだもの。
地震が起きたとき、私は自分のデスクにいて、古い海外SFのペーパーバックを並べながら仕事をしていたんですが、最初は立っていた記憶があります。すると隣席の編集者が座って地震を体感してみたらどうかと言い、そのとき始めて地震が起きているらしいことを知りました。言われたとおりに一旦座ると、確かになにやら揺れている感覚がある。今の職場に居候を始めてから数年になるけど、地震に遭遇したことは片手以上はあるし、殊更珍しいことではなかった。それ故の油断が私の心の中にあったのか、すぐに訪れた強すぎる揺れには本当に動揺した。それがいつも体感するものと明らかに違うことにはすぐ気付いたし、いくらビルの高いフロアにいるからといって本棚もガタガタと揺れ動くような地震は常識外れもいいとこだった。
家庭で地震に遭遇したとき、その家に住む人間はどうするだろうか? 火を付けているならそれを消すだろうし、あるいは咄嗟に表へと飛び出すかも知れない。けれど、あるいは10人に1人、いや、5人に1人ぐらいの割合で倒れやすい家具を押さえるという行動に出る者がいるはずだ。タンスでも食器棚でも、背の高い家具はなにかと倒れやすい。それが危険な行為であると分かっていても、いざ倒れると事だからだ。そして、私の職場の編集部でも同じ行動に移った人がいた。もっともこの場合、押さえるのは家具ではなくて本棚であるが。一般的な出版社、それも編集部ともなれば設置されている本棚も大きい物が多く、その中には数百冊、いや、一千冊は超えるであろう書籍がギッシリと入っている。大半は自社の文庫本やハードカバーであるが、ハッキリ言うとそんなものを人一人で押さえこむなどというのは不可能だ。出来るわけがない。
そして、私の後ろには本棚があった。本が満杯に詰まって、その上にも置かれているような大きな大きな本棚が。
私は逃げた。作業中の書籍も、パソコンも、自分の荷物も手に取ることはなく。この時点ではまだ、単なる身の危険を感じたに過ぎなかったのかも知れない。いつもよりも強い地震だから、念のためその場を離れただけだったのだろう。しかし、揺れは一向に収まらないどころか強さを増していき、ふと隣を見ると、私の斜め前に座っている編集者が自分のデスクの下に隠れているのが見えた。そう、身を隠すほどの危機感を覚えていたのだ。
しかし、編集部の中にはまだ必死で本棚を押さえようとしている人が多数いた。私の隣席に座っている編集者もその一人で、けれど一人ではどうしたって無理がある。このとき、私の頭には一瞬でも戻って手伝うという発想が生まれてこなかった。足が、身体が、それを拒否したのだ。戻ってはいけない、今戻るのだけはダメだと、本能がそう訴えていたのだろうか? 編集部にいる部長の一人が、本棚の近くは危ない、離れたほうがいいと叫んだ。既に本棚からは何冊か本がこぼれ落ちており、本棚そのものもグラグラと揺れている。特に壁へ打ち付けてあるわけでもないないから、倒れるときは本当に倒れるのだ。一人、また一人と本棚から人が離れていく。そして、私の隣席に座っていた編集者が本棚から離れた、まさに3秒後のことだった。編集部にある本棚の半分が、地震の衝撃によって倒れた。
もし、編集者たちが部長の声に従わず、従う意志があったとしても行動が3秒遅れていたら、彼らは本棚の下敷きになっていただろう。一千冊近い本が詰まった鉄枠の塊に、文字通り押し潰されていた。私自身、手を貸すために戻っていれば、今頃こうして日記など書いていられなかったかも知れない。本棚が倒れ、デスクの上のものがばら蒔かれ、編集部は本の海とかした。そこかしこに散らばった本は、通路すらも塞ぐほど溢れかえっていた。あぁ、こんなにも本があったんだなと、私はそんな感慨に浸りかけた。でも、現実にはそんな余裕は一欠片だってなかったのだ。
「逃げましょう、外に出たほうがいい」
私の、おそらく誰に対してというより、職場の全員に向けて言ったであろう呟きに、頷かないものはいなかった。本棚が倒れ、本がぶちまけられたことで、これが普通じゃない事態であることを、その場にいたすべての人が認識していたのだから。
ビルの壁面に設置してある非常階段は、また強い揺れが来たら外れるかも知れないからと、ビルの中にある階段を使って1階まで降りた。勿論、それじゃあ非常階段の意味が無いじゃないかと思うし、何人かはそっちで降りていたようだが、表に出てみるとそこには沢山の人がいた。同じ会社の人間もいれば、隣のビルからも人が出てきており、皆一様に建物の中から避難してきたのだ。考えることは皆同じ、それ以外の選択肢はないかのように。そのときの私は手ぶらだった。編集部の人間が大なり小なり、いや、この表現が正しいのかも分からないが、とにかく身の回りのもの、コートやカバンなどを持ってきていた中、私だけはなにも着ず、なにも持たず、それこそ携帯と財布ぐらいしか持っていないという状態だったのだ。逃げるにしても、荷物を取るぐらいの時間はあった。だから周りの人間は持っているのだし、私にだってその時間は平等に与えられていた。けれど、状況と状態がそれを許さなかった。私の荷物は、なにもかもが本棚の下に埋まっていた。
それからというもの、携帯は繋がらず、何回余震があったのかも分からないほど事態は切迫していた。うちの編集部というか出版社は持ちビルに入居しているのだが、その中には喫茶店が存在し、そこにはテレビがあった。携帯のネットも繋がらい状態で、テレビの存在というのは非常に価値があるものだ。私はビルの中に戻る気がしなかったが、既に何人かの人はテレビを見に行っており、今回の地震がM8.8と過去に類を見ない大きさであるものが分かってきた。単に数字だけならば、私に実感がわくことはなかったのかも知れない。しかし、現実として編集部は壊滅し、私はビルの外に避難している。その事実が私に大事が、震災と呼べるだけの大地震が起きたのだと、否応なく知らしめたのだ。
編集部のあるフロアには、全部で3回ほど戻った。最初は私を含めた数人が戻り、状態を確認するために。改めて見ると酷いもので、本棚の直撃を受けて床に叩きつけられたパソコンがあったり、私のデスク周りなどもはや本棚と本に埋まって、そこになにがあるのかさえも分からなかった。荷物はどこに消えたのか、開きっぱなしだったノートパソコンは無事なのか? 作業中だったペーパーバックは、それが詰まったダンボールはどうなった? どうにも出来ない状況の中で、私の中に不安だけが渦巻いていた。だけど、それを解消する手段は、今の私にも、いや、その場にいた誰にもなかった。
またビルの外に出て、これはもう仕事にならないから解散になるのではないかという話が出た。解散となれば帰るしかないわけだが、さすがに手ぶらで帰るわけには行かない。財布と携帯はあるから電車に乗れないことはないのだが、丁度次の日は土曜日で休みだったし、カバンに入り用の私物も多い。私は編集部の人に頼んで一緒にフロアへ戻ってもらい、なんとかコートとカバンだけでも回収できないかと思った。どこにあるのかも分からないものを探す、それは余震も続く中で無謀な行為だったが、私はなんとかやり遂げた。私のデスクの正面、比較的被害が少ないところの下から潜り込んで、暗い中を手探りで探すこと数分。覚えのある感触が、私の手の平に触れた。
あった、コートと、それにカバンが見つかった。自分でも探し出すことは無理じゃないかと思っていただけに、救出したときはたまらなく嬉しかった。元より持ち物に対する愛着が強い方であるから、奇妙な安心感が生まれたのだろう。マフラーも見つけることが出来て、では改めて脱出するかと思った、そのときだった。ふと、自分が先ほどまで座ってい仕事をしていた椅子が目に入った。荷物はその下に埋まっていたのだから、目線としては自然に上がっただけに過ぎないが、そこになにかが落ちて、いや、乗っかっている。クッションの上にあるそれは、書籍カバーの掛かった文庫本であり、私は手に取れる位置にあったその本を、掴んだ。
私の口からこぼれたのは、苦笑ではなかったと思う。しかし、なんとも言えない笑がこぼれたのは確かだった。私は手にした新約 とある魔術の禁書目録をカバンにしまうと、壊滅した編集部を後にした。まだ腕時計やハンカチといったものが見つかっていなかったが、これだけでも回収でれば十分だった。
外に出ること3回目、いよいよ解散が現実味となってきた。しかし、私は電車などの交通機関が気がかりだった。未だ携帯は繋がりにくい状態であったが、iPhoneなどの所謂スマートフォンは回線が違うためか繋がるらしく、Twitter等で情報を入手していた人が、どうやらJRは本日分の在来線を終日運休にするようだという話を聞きつけてきた。JRだけではない、地下鉄や私鉄も現在止まっている状態だし、そうなると帰れないということだった。この時点で、私はひとつの選択を迫られた。すなわち、歩いて帰るか、それとも会社に残るかということだった。それは私の人生に置いて、始めて現れた選択肢だったのだ。
やがて会社の重役がビルの外へと出てきた。重役たちは丁度編集部よりも上のフロアにある会議室で会議中だったらしく、降りてこないからあるいはまだ会議をしているのかと思ったが、実は屋上へと避難していたらしい。災害時に屋上へ逃げることが正しいのかは分からないが、とにもかくにも落ち着いたから姿を見せたのだろう。屋上から階段で下まで降りてくるのは疲れたのではないかと思ったけど、そんな些細なことを考えている場合でもなかった。そう、重役が出てきたのは大本営発表をするためだった。即ち、この事態に対して社としてどのように対応し、指示を出すかということ。
上の判断は賢明だった。現在の状況を鑑みて、特に編集部は業務を続けることは不可能であると判断し、本日の仕事そのものは終了とする。しかし、電車が動いていない現状から帰宅は困難とみなし、確実に徒歩で帰れる者以外は会社残るようにと。このビルは大丈夫だから、という言葉をどこまで信じきれるかは、正直私にも分からなかったが、こんなときに居残ることの出来る場所があるというだけでも、他よりは多少マシだったのだと思う。
しかし、会社に残ると言っても繰り返すようだが編集部は壊滅しており、発表後に戻って多少は片付けたものの、それでも人がいられるような空間ではなかった。私も自分のデスク周りの物をどかして、なんとかノートパソコンと外付けHDDの発掘には成功したが、それ以上のことは無理だった。月曜日に出てきたときに片付けるしかないといい、とりあえずフロアの鍵を閉めることとなった。本しかないとはいえ、火事場泥棒の類が現れないとも限らないからだ。
このときになって、編集部の中で歩いて帰る人間と、それ以外の人間で分かれた。まあ、家庭持ちも少なくないし、家や家族が心配だという人も多いのだろう。災害の本によると職場から自宅が徒歩で20キロ圏内なら帰ることもできるが、それ以上は所謂帰宅困難者というものに該当し、30キロともなれば徒歩での帰宅はほぼ不可能だ。勿論、1日という単位で計算した場合の話であって、例えば2日間に分けたりすれば十分可能な話ではあるが、この場合はその日中に帰れるかどうかが問題になってくる。そして、私の家は東京を起点とした災害MAPにも載っていないような、徒歩40キロ以上の場所にあった。歩くか残るか、その選択肢は私の前に現れたようで、実は存在しなかったのだ。
本音を言えば、私は家に帰りたくなかったのかも知れない。実はこのとき私は家族と、特に姉との折り合いが非常に悪かったため、家庭内でとても息が詰まる思いをしていたのだ。これに関しては割と近い日記に書いてあることだから知っている人も多いだろうが、私が地震後すぐに家族へ連絡をしなかったのも、通信の混雑でそれが出来ない以上に、必死になるだけの積極さが私の中になかったんだと思う。あるいは怪我でもしているかも知れないし、もっと酷いことになっているかも知れないというのに、薄情な話だろう。私自身、それは理解していたけど、そんな状態にあっても気分が乗らなかったのだ。家族と話すという、その行為が。
結局、私が最初に自分から連絡をとったのは家族ではなかった。それに付いてはまた次の機会に書こうかと思うが、私は家族の方から連絡が来るまで、自分から電話を掛けることはしなかった。薄情というよりは非情なのかも知れないが、そんな状況にあっても行動を起こさないほど、私は冷めていたんだと思う。家族というものに対して。母親はともかく、姉から連絡が来たときは驚いた。あの人とはまったく口を聞かない日々が続いていたので、まさかあちらから連絡をして来るとは考えても見なかったのだ。電話がかかってきたことに私は戸惑い、そして次の瞬間には着信を拒否していた。話すことなどなにもない、そう思っていたのかも知れないし、あるいは話したくなかったのかも知れない。しかし、それは人としてあんまりだし、もしかすれば表示はあの人でも、かけてきたのは違う人間かも知れないと思い直して、私は自分から電話をかけ直した。一度目は失敗して、二度目で繋がった。そして、私の予想は見事に外れていた。その事実に対して私がどう思ったのかは、ここで書くことではないだろう。ただ、あの人と話す私に一切の感情がこもっていなかったのは、紛れもない事実だ。
JR東日本から正式に発表があり、在来線の終日運休が決まった。私はそれもいいと思った。会社に泊まるという始めての行為に、多少なりとも魅力を感じていたのだろうか? それはそれで震災を楽しんでいるようで最低な話だが、少なくとも帰れないことで自暴自棄になるようなことはなかった。会社という居場所がある時点で、私はマシな方だったのだし。
会社の1階、ロビーと言うには小さすぎる受付前の小スペースに陣取って私は夜を明かすことにしたが、途中で喫茶店のほうが閉店時間にさしかかり、そこを社員へ解放するという話になった。椅子は硬いがテレビはあるし、狭苦しいスペースにいるよりはいいのではないかと、私と他に残っていた帰宅困難者な社員が喫茶店へと入った。テレビは最初NHKが付いていたけど、流れていた津波の映像は私の想像をはるかに超えるものだった。以前にスマトラ沖地震が起きた際、大津波の映像というのを見たことがあるが、それに近い、いや、それ以上のものを感じていた。日本という国でこんな災害が起きるのか、違う、起きてしまったのかという事実は、私に衝撃以上の混乱を与えた。まるで実感のわかない、なにかが麻痺してしまったかのような感覚。同じチャンネルばかりではと、途中何度か民放へとチャンネルを変えたが、そちらのほうが映像的には凄いものばかりだった。ここで気付いたというか、わかったことなのだが、全国放送であるNHKはパニックなどを起こさないように過激な映像は控え目にしており、逆に民放は衝撃的なシーンなど、視聴者の目を引くものを積極的に流していたのだ。別にどちらが正しくて、片方が間違っているなどと言うつもりはないが、その違いがなんだか新鮮であり、不思議だった。
夜が近くなって私は食料を買いに街へと出た。飲食店は開いているところもあったが、さすがに外食という気分ではなかった。早仕舞いをしているところも多い中で、私はファーストフード店を選んだ。こんなときでも営業していることに驚いたが、会社にはクロネコヤマトの宅急便が配送と集荷に訪れていたし、やっているところはやっているのだろう。適当にバーガー類を買って、会社に戻って食べる。飲み物はカバンに水筒があったが、それで一晩過ごすのは心許ないと、食事が終わってしばらくした後にコンビニへと足を向けた。既に水や食料品の大半は棚から消えており、空っぽになった棚に苦笑を覚えないでもなかったが、飲料水という区切りではその限りでなかったので、スポーツドリンクの比較的大きいペットボトルを一つ買って、後はそれを片手にひたすら朝になるのを待った。
朝になって、気持ちは地震よりも鉄道の復旧状態に傾くようになった。深夜から明け方にかけていくつかの路線は復活し、後はJRを待つだけという状態になり、幾人かの人は既に帰宅を始めていた。私も地下鉄と私鉄を使えば帰れないこともなかったのだが、どうせ混んでいるだろうし、少し落ち着いてからと考えていた。けれど、街は閑散としており、朝食も満足に取れない状態であったから、あまり長居をするのもどうであろうかと、そんな風に考え直した。そんなわけで、私はJRが再開してから1時間ほど時間を置いて、帰宅の途に付いた。会社にはまだ数人の人が残っていたので、挨拶を済ませると東京駅へ向かった。東海道線は乗れる状態ではなかったので京浜東北線へ。だが、これもまた寿司詰め以上の混みっぷりであり、しかも、そんな状態で品川駅に途中停車というありま様だった。
耐えかねた私は電車を降りると、京急線ならどうだろうかと京急へと向かってみることにした。乗り換えのシャッターは下ろされていたので、一旦外へ出て京急の改札口に直接足を運ぶ。すごい行列であったが、私は流されるように歩いていると、いつの間にか改札を抜けてしまった。どうやら、列が複数に乱れて混ざってしまい、そこから弾きだされるように私は飛び出してしまったらしい。まあ、それならそれでさっさと帰ろうと、私はホームへと急いだ。入場規制が効いているのか、京急線のホームはそれほど混んでおらず、また、JRが復旧したこともあってか、さほどの混雑もしていなかった。私は快速電車に乗り込むと、そのまま横浜へと帰還した。後は私鉄に乗ればいいだけだったが、私はふと気になって横浜の駅周辺を少し歩いた。テレビのニュースでは横浜の映像も少なからず映っており、現状を知りたかったのだ。ダイエーなど、テレビでも取り上げられていた場所の惨状を目にしつつ、私は何気なくゲマ屋やメロンブックスのあるビルに足を運んだ。驚くべきことに、二つの店舗は普通に営業をしていた。確かにダイエーの辺りは酷いものであったが、横浜そのもの被害としてはそれほどでもなかったのだろう。私は何故だかその事実に感慨深くなり、買っていなかったコミックスを買って帰ってしまった。
私鉄に乗って家に帰りついたとき、そこで私を出迎えてくれる人は誰もいなかった。父親は在宅していたようだが寝室で寝ていたし、母親は買出しに出ていた。姉は徒歩5分ほどにある祖母の家に行っていたようで、私は物も言わぬ、静まり返った家へと入った。父親からの連絡で聞いていた自室の惨状は、思っていたよりも酷いものではなかった。確かに物は散乱していたが、職場の壊滅具合を目にしてしまうと大したことないと思えるぐらいに、私は麻痺していたのかもしれない。片付けるのは起きてからでいい、私はそう思うと寝間着に着替えてベッドへと倒れこんだのであった。実に、30時間ぶりの睡眠であった。
地震が起きたとき、私は自分のデスクにいて、古い海外SFのペーパーバックを並べながら仕事をしていたんですが、最初は立っていた記憶があります。すると隣席の編集者が座って地震を体感してみたらどうかと言い、そのとき始めて地震が起きているらしいことを知りました。言われたとおりに一旦座ると、確かになにやら揺れている感覚がある。今の職場に居候を始めてから数年になるけど、地震に遭遇したことは片手以上はあるし、殊更珍しいことではなかった。それ故の油断が私の心の中にあったのか、すぐに訪れた強すぎる揺れには本当に動揺した。それがいつも体感するものと明らかに違うことにはすぐ気付いたし、いくらビルの高いフロアにいるからといって本棚もガタガタと揺れ動くような地震は常識外れもいいとこだった。
家庭で地震に遭遇したとき、その家に住む人間はどうするだろうか? 火を付けているならそれを消すだろうし、あるいは咄嗟に表へと飛び出すかも知れない。けれど、あるいは10人に1人、いや、5人に1人ぐらいの割合で倒れやすい家具を押さえるという行動に出る者がいるはずだ。タンスでも食器棚でも、背の高い家具はなにかと倒れやすい。それが危険な行為であると分かっていても、いざ倒れると事だからだ。そして、私の職場の編集部でも同じ行動に移った人がいた。もっともこの場合、押さえるのは家具ではなくて本棚であるが。一般的な出版社、それも編集部ともなれば設置されている本棚も大きい物が多く、その中には数百冊、いや、一千冊は超えるであろう書籍がギッシリと入っている。大半は自社の文庫本やハードカバーであるが、ハッキリ言うとそんなものを人一人で押さえこむなどというのは不可能だ。出来るわけがない。
そして、私の後ろには本棚があった。本が満杯に詰まって、その上にも置かれているような大きな大きな本棚が。
私は逃げた。作業中の書籍も、パソコンも、自分の荷物も手に取ることはなく。この時点ではまだ、単なる身の危険を感じたに過ぎなかったのかも知れない。いつもよりも強い地震だから、念のためその場を離れただけだったのだろう。しかし、揺れは一向に収まらないどころか強さを増していき、ふと隣を見ると、私の斜め前に座っている編集者が自分のデスクの下に隠れているのが見えた。そう、身を隠すほどの危機感を覚えていたのだ。
しかし、編集部の中にはまだ必死で本棚を押さえようとしている人が多数いた。私の隣席に座っている編集者もその一人で、けれど一人ではどうしたって無理がある。このとき、私の頭には一瞬でも戻って手伝うという発想が生まれてこなかった。足が、身体が、それを拒否したのだ。戻ってはいけない、今戻るのだけはダメだと、本能がそう訴えていたのだろうか? 編集部にいる部長の一人が、本棚の近くは危ない、離れたほうがいいと叫んだ。既に本棚からは何冊か本がこぼれ落ちており、本棚そのものもグラグラと揺れている。特に壁へ打ち付けてあるわけでもないないから、倒れるときは本当に倒れるのだ。一人、また一人と本棚から人が離れていく。そして、私の隣席に座っていた編集者が本棚から離れた、まさに3秒後のことだった。編集部にある本棚の半分が、地震の衝撃によって倒れた。
もし、編集者たちが部長の声に従わず、従う意志があったとしても行動が3秒遅れていたら、彼らは本棚の下敷きになっていただろう。一千冊近い本が詰まった鉄枠の塊に、文字通り押し潰されていた。私自身、手を貸すために戻っていれば、今頃こうして日記など書いていられなかったかも知れない。本棚が倒れ、デスクの上のものがばら蒔かれ、編集部は本の海とかした。そこかしこに散らばった本は、通路すらも塞ぐほど溢れかえっていた。あぁ、こんなにも本があったんだなと、私はそんな感慨に浸りかけた。でも、現実にはそんな余裕は一欠片だってなかったのだ。
「逃げましょう、外に出たほうがいい」
私の、おそらく誰に対してというより、職場の全員に向けて言ったであろう呟きに、頷かないものはいなかった。本棚が倒れ、本がぶちまけられたことで、これが普通じゃない事態であることを、その場にいたすべての人が認識していたのだから。
ビルの壁面に設置してある非常階段は、また強い揺れが来たら外れるかも知れないからと、ビルの中にある階段を使って1階まで降りた。勿論、それじゃあ非常階段の意味が無いじゃないかと思うし、何人かはそっちで降りていたようだが、表に出てみるとそこには沢山の人がいた。同じ会社の人間もいれば、隣のビルからも人が出てきており、皆一様に建物の中から避難してきたのだ。考えることは皆同じ、それ以外の選択肢はないかのように。そのときの私は手ぶらだった。編集部の人間が大なり小なり、いや、この表現が正しいのかも分からないが、とにかく身の回りのもの、コートやカバンなどを持ってきていた中、私だけはなにも着ず、なにも持たず、それこそ携帯と財布ぐらいしか持っていないという状態だったのだ。逃げるにしても、荷物を取るぐらいの時間はあった。だから周りの人間は持っているのだし、私にだってその時間は平等に与えられていた。けれど、状況と状態がそれを許さなかった。私の荷物は、なにもかもが本棚の下に埋まっていた。
それからというもの、携帯は繋がらず、何回余震があったのかも分からないほど事態は切迫していた。うちの編集部というか出版社は持ちビルに入居しているのだが、その中には喫茶店が存在し、そこにはテレビがあった。携帯のネットも繋がらい状態で、テレビの存在というのは非常に価値があるものだ。私はビルの中に戻る気がしなかったが、既に何人かの人はテレビを見に行っており、今回の地震がM8.8と過去に類を見ない大きさであるものが分かってきた。単に数字だけならば、私に実感がわくことはなかったのかも知れない。しかし、現実として編集部は壊滅し、私はビルの外に避難している。その事実が私に大事が、震災と呼べるだけの大地震が起きたのだと、否応なく知らしめたのだ。
編集部のあるフロアには、全部で3回ほど戻った。最初は私を含めた数人が戻り、状態を確認するために。改めて見ると酷いもので、本棚の直撃を受けて床に叩きつけられたパソコンがあったり、私のデスク周りなどもはや本棚と本に埋まって、そこになにがあるのかさえも分からなかった。荷物はどこに消えたのか、開きっぱなしだったノートパソコンは無事なのか? 作業中だったペーパーバックは、それが詰まったダンボールはどうなった? どうにも出来ない状況の中で、私の中に不安だけが渦巻いていた。だけど、それを解消する手段は、今の私にも、いや、その場にいた誰にもなかった。
またビルの外に出て、これはもう仕事にならないから解散になるのではないかという話が出た。解散となれば帰るしかないわけだが、さすがに手ぶらで帰るわけには行かない。財布と携帯はあるから電車に乗れないことはないのだが、丁度次の日は土曜日で休みだったし、カバンに入り用の私物も多い。私は編集部の人に頼んで一緒にフロアへ戻ってもらい、なんとかコートとカバンだけでも回収できないかと思った。どこにあるのかも分からないものを探す、それは余震も続く中で無謀な行為だったが、私はなんとかやり遂げた。私のデスクの正面、比較的被害が少ないところの下から潜り込んで、暗い中を手探りで探すこと数分。覚えのある感触が、私の手の平に触れた。
あった、コートと、それにカバンが見つかった。自分でも探し出すことは無理じゃないかと思っていただけに、救出したときはたまらなく嬉しかった。元より持ち物に対する愛着が強い方であるから、奇妙な安心感が生まれたのだろう。マフラーも見つけることが出来て、では改めて脱出するかと思った、そのときだった。ふと、自分が先ほどまで座ってい仕事をしていた椅子が目に入った。荷物はその下に埋まっていたのだから、目線としては自然に上がっただけに過ぎないが、そこになにかが落ちて、いや、乗っかっている。クッションの上にあるそれは、書籍カバーの掛かった文庫本であり、私は手に取れる位置にあったその本を、掴んだ。
私の口からこぼれたのは、苦笑ではなかったと思う。しかし、なんとも言えない笑がこぼれたのは確かだった。私は手にした新約 とある魔術の禁書目録をカバンにしまうと、壊滅した編集部を後にした。まだ腕時計やハンカチといったものが見つかっていなかったが、これだけでも回収でれば十分だった。
外に出ること3回目、いよいよ解散が現実味となってきた。しかし、私は電車などの交通機関が気がかりだった。未だ携帯は繋がりにくい状態であったが、iPhoneなどの所謂スマートフォンは回線が違うためか繋がるらしく、Twitter等で情報を入手していた人が、どうやらJRは本日分の在来線を終日運休にするようだという話を聞きつけてきた。JRだけではない、地下鉄や私鉄も現在止まっている状態だし、そうなると帰れないということだった。この時点で、私はひとつの選択を迫られた。すなわち、歩いて帰るか、それとも会社に残るかということだった。それは私の人生に置いて、始めて現れた選択肢だったのだ。
やがて会社の重役がビルの外へと出てきた。重役たちは丁度編集部よりも上のフロアにある会議室で会議中だったらしく、降りてこないからあるいはまだ会議をしているのかと思ったが、実は屋上へと避難していたらしい。災害時に屋上へ逃げることが正しいのかは分からないが、とにもかくにも落ち着いたから姿を見せたのだろう。屋上から階段で下まで降りてくるのは疲れたのではないかと思ったけど、そんな些細なことを考えている場合でもなかった。そう、重役が出てきたのは大本営発表をするためだった。即ち、この事態に対して社としてどのように対応し、指示を出すかということ。
上の判断は賢明だった。現在の状況を鑑みて、特に編集部は業務を続けることは不可能であると判断し、本日の仕事そのものは終了とする。しかし、電車が動いていない現状から帰宅は困難とみなし、確実に徒歩で帰れる者以外は会社残るようにと。このビルは大丈夫だから、という言葉をどこまで信じきれるかは、正直私にも分からなかったが、こんなときに居残ることの出来る場所があるというだけでも、他よりは多少マシだったのだと思う。
しかし、会社に残ると言っても繰り返すようだが編集部は壊滅しており、発表後に戻って多少は片付けたものの、それでも人がいられるような空間ではなかった。私も自分のデスク周りの物をどかして、なんとかノートパソコンと外付けHDDの発掘には成功したが、それ以上のことは無理だった。月曜日に出てきたときに片付けるしかないといい、とりあえずフロアの鍵を閉めることとなった。本しかないとはいえ、火事場泥棒の類が現れないとも限らないからだ。
このときになって、編集部の中で歩いて帰る人間と、それ以外の人間で分かれた。まあ、家庭持ちも少なくないし、家や家族が心配だという人も多いのだろう。災害の本によると職場から自宅が徒歩で20キロ圏内なら帰ることもできるが、それ以上は所謂帰宅困難者というものに該当し、30キロともなれば徒歩での帰宅はほぼ不可能だ。勿論、1日という単位で計算した場合の話であって、例えば2日間に分けたりすれば十分可能な話ではあるが、この場合はその日中に帰れるかどうかが問題になってくる。そして、私の家は東京を起点とした災害MAPにも載っていないような、徒歩40キロ以上の場所にあった。歩くか残るか、その選択肢は私の前に現れたようで、実は存在しなかったのだ。
本音を言えば、私は家に帰りたくなかったのかも知れない。実はこのとき私は家族と、特に姉との折り合いが非常に悪かったため、家庭内でとても息が詰まる思いをしていたのだ。これに関しては割と近い日記に書いてあることだから知っている人も多いだろうが、私が地震後すぐに家族へ連絡をしなかったのも、通信の混雑でそれが出来ない以上に、必死になるだけの積極さが私の中になかったんだと思う。あるいは怪我でもしているかも知れないし、もっと酷いことになっているかも知れないというのに、薄情な話だろう。私自身、それは理解していたけど、そんな状態にあっても気分が乗らなかったのだ。家族と話すという、その行為が。
結局、私が最初に自分から連絡をとったのは家族ではなかった。それに付いてはまた次の機会に書こうかと思うが、私は家族の方から連絡が来るまで、自分から電話を掛けることはしなかった。薄情というよりは非情なのかも知れないが、そんな状況にあっても行動を起こさないほど、私は冷めていたんだと思う。家族というものに対して。母親はともかく、姉から連絡が来たときは驚いた。あの人とはまったく口を聞かない日々が続いていたので、まさかあちらから連絡をして来るとは考えても見なかったのだ。電話がかかってきたことに私は戸惑い、そして次の瞬間には着信を拒否していた。話すことなどなにもない、そう思っていたのかも知れないし、あるいは話したくなかったのかも知れない。しかし、それは人としてあんまりだし、もしかすれば表示はあの人でも、かけてきたのは違う人間かも知れないと思い直して、私は自分から電話をかけ直した。一度目は失敗して、二度目で繋がった。そして、私の予想は見事に外れていた。その事実に対して私がどう思ったのかは、ここで書くことではないだろう。ただ、あの人と話す私に一切の感情がこもっていなかったのは、紛れもない事実だ。
JR東日本から正式に発表があり、在来線の終日運休が決まった。私はそれもいいと思った。会社に泊まるという始めての行為に、多少なりとも魅力を感じていたのだろうか? それはそれで震災を楽しんでいるようで最低な話だが、少なくとも帰れないことで自暴自棄になるようなことはなかった。会社という居場所がある時点で、私はマシな方だったのだし。
会社の1階、ロビーと言うには小さすぎる受付前の小スペースに陣取って私は夜を明かすことにしたが、途中で喫茶店のほうが閉店時間にさしかかり、そこを社員へ解放するという話になった。椅子は硬いがテレビはあるし、狭苦しいスペースにいるよりはいいのではないかと、私と他に残っていた帰宅困難者な社員が喫茶店へと入った。テレビは最初NHKが付いていたけど、流れていた津波の映像は私の想像をはるかに超えるものだった。以前にスマトラ沖地震が起きた際、大津波の映像というのを見たことがあるが、それに近い、いや、それ以上のものを感じていた。日本という国でこんな災害が起きるのか、違う、起きてしまったのかという事実は、私に衝撃以上の混乱を与えた。まるで実感のわかない、なにかが麻痺してしまったかのような感覚。同じチャンネルばかりではと、途中何度か民放へとチャンネルを変えたが、そちらのほうが映像的には凄いものばかりだった。ここで気付いたというか、わかったことなのだが、全国放送であるNHKはパニックなどを起こさないように過激な映像は控え目にしており、逆に民放は衝撃的なシーンなど、視聴者の目を引くものを積極的に流していたのだ。別にどちらが正しくて、片方が間違っているなどと言うつもりはないが、その違いがなんだか新鮮であり、不思議だった。
夜が近くなって私は食料を買いに街へと出た。飲食店は開いているところもあったが、さすがに外食という気分ではなかった。早仕舞いをしているところも多い中で、私はファーストフード店を選んだ。こんなときでも営業していることに驚いたが、会社にはクロネコヤマトの宅急便が配送と集荷に訪れていたし、やっているところはやっているのだろう。適当にバーガー類を買って、会社に戻って食べる。飲み物はカバンに水筒があったが、それで一晩過ごすのは心許ないと、食事が終わってしばらくした後にコンビニへと足を向けた。既に水や食料品の大半は棚から消えており、空っぽになった棚に苦笑を覚えないでもなかったが、飲料水という区切りではその限りでなかったので、スポーツドリンクの比較的大きいペットボトルを一つ買って、後はそれを片手にひたすら朝になるのを待った。
朝になって、気持ちは地震よりも鉄道の復旧状態に傾くようになった。深夜から明け方にかけていくつかの路線は復活し、後はJRを待つだけという状態になり、幾人かの人は既に帰宅を始めていた。私も地下鉄と私鉄を使えば帰れないこともなかったのだが、どうせ混んでいるだろうし、少し落ち着いてからと考えていた。けれど、街は閑散としており、朝食も満足に取れない状態であったから、あまり長居をするのもどうであろうかと、そんな風に考え直した。そんなわけで、私はJRが再開してから1時間ほど時間を置いて、帰宅の途に付いた。会社にはまだ数人の人が残っていたので、挨拶を済ませると東京駅へ向かった。東海道線は乗れる状態ではなかったので京浜東北線へ。だが、これもまた寿司詰め以上の混みっぷりであり、しかも、そんな状態で品川駅に途中停車というありま様だった。
耐えかねた私は電車を降りると、京急線ならどうだろうかと京急へと向かってみることにした。乗り換えのシャッターは下ろされていたので、一旦外へ出て京急の改札口に直接足を運ぶ。すごい行列であったが、私は流されるように歩いていると、いつの間にか改札を抜けてしまった。どうやら、列が複数に乱れて混ざってしまい、そこから弾きだされるように私は飛び出してしまったらしい。まあ、それならそれでさっさと帰ろうと、私はホームへと急いだ。入場規制が効いているのか、京急線のホームはそれほど混んでおらず、また、JRが復旧したこともあってか、さほどの混雑もしていなかった。私は快速電車に乗り込むと、そのまま横浜へと帰還した。後は私鉄に乗ればいいだけだったが、私はふと気になって横浜の駅周辺を少し歩いた。テレビのニュースでは横浜の映像も少なからず映っており、現状を知りたかったのだ。ダイエーなど、テレビでも取り上げられていた場所の惨状を目にしつつ、私は何気なくゲマ屋やメロンブックスのあるビルに足を運んだ。驚くべきことに、二つの店舗は普通に営業をしていた。確かにダイエーの辺りは酷いものであったが、横浜そのもの被害としてはそれほどでもなかったのだろう。私は何故だかその事実に感慨深くなり、買っていなかったコミックスを買って帰ってしまった。
私鉄に乗って家に帰りついたとき、そこで私を出迎えてくれる人は誰もいなかった。父親は在宅していたようだが寝室で寝ていたし、母親は買出しに出ていた。姉は徒歩5分ほどにある祖母の家に行っていたようで、私は物も言わぬ、静まり返った家へと入った。父親からの連絡で聞いていた自室の惨状は、思っていたよりも酷いものではなかった。確かに物は散乱していたが、職場の壊滅具合を目にしてしまうと大したことないと思えるぐらいに、私は麻痺していたのかもしれない。片付けるのは起きてからでいい、私はそう思うと寝間着に着替えてベッドへと倒れこんだのであった。実に、30時間ぶりの睡眠であった。
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