得られたものに中身はない
2011年3月21日 アニメ・マンガ東日本大震災以降、私はテレビを観ることが比較的多くなったように思える。テレビと言っても観ているのはCSを除けばNHKだけだが、私に限らずあの日からテレビのニュースを見るようになった人は多いはずだ。特に首都圏は原発問題や計画停電、それに伴う鉄道のダイヤ乱れなど、現在進行形で災害という名の爪に抉られている最中だ。テレビのニュースを観るという行為は、もっとも単純な形で情報を得る手段であることから、別に間違ったことではないと思う。テレビで流れていることのすべてが真実とは限らないにせよ、それはどんな媒体にしても同じことだから。
私がNHKしか観ていないのは情報量が多いことと、常にニュースばかり放送しているイメージがあるからでしょうか? 実際はそうでもないんでしょうけど、日中は家にいないから、返って来る既にニュースの時間になってますしね。まあ、CMがないってのも煩わしさを感じない上で大きな利点ではあるし、ネットで話題になっているACのCMを私は最近まで見たことがなくて、それこそラジオで音だけ聴いたという感じでした。ネット人というのはおかしなもので、民放の報道の仕方などを批判するくせして、誰よりも民放を見ているような気がします。大体、見ているからこそ批判も出来るのであって、見もしないでなにか言うのは、ただの言い掛かりですからね。件のACのCMがしつこすぎるという話も、私みたいに民放を観ていなかった人間にはイマイチ実感の沸かない話でしたし。
会社に泊まったときに感じたけど、一つのチャンネルをずっと観つづけることなんて人には無理なんですよ。絶対に飽きるし、気分を変えたくなってくる。私の場合はCSでそれを満たしているから構わないけど、そういうのがない人は地上波から選局するしかありませんからね。以前の日記にも書いたとおり、私は別に国営放送だからどうだとか、民間放送だからなんだとか、そういうことは関係ないと思っている。物にはそれぞれの色合いや風向きというものがあって、どれもが同じにして、均等であることなどありえないのだから、多少の違いぐらいはあったほうがいいんですよ。情報の流し方も、その解釈も、この非常時にこういう表現が正しいのかは分からないけど、みんな同じだとつまらないし、消耗品でもないものが複数あっても意味なんてないでしょう? まあ、それは個人の感じ方にもよると思うけど、私はそんな風に考えています。
今まで私にとって、災害というものはどこか縁遠い話だった。震災というもので記憶にあるのは阪神大震災だけど、あれは西日本で起きたことだし、あの震災が起きたことで私の生活のなにかが変わったわけでもなかったから、私にとってはどこか現実味のない、テレビの中の出来事のように感じられた。随分、淡白だと自分でも思うけど、それは新潟中越地震のときもそうであったし、人間なんてものは自分やその周囲でなにかが起こらない限り、事実というものを簡単には認識できないものなのだ。今回の震災はその点が違い、私は帰宅困難者として会社に泊まることとなり、今現在も計画停電という制限を課せられななかで暮らしている。電車の本数は減って混雑は以前の数倍となり、行きの電車で疲れ果て、会社の業務で悲鳴も枯れ、帰りの電車でトドメを刺されるといった日々をこのところ送っている。それは仕方のないことであるし、首都圏に住む人であれば誰もが似たようなものなのだと思うけど、こうして自分の生活や暮らしに影響が出始めたことで、私は災害や震災というものを明確に認識するに至ったんだと思う。それこそ、これが初めてと言っていいほどに。
私は出版社の街である神田近辺で仕事をしており、神田がある千代田区は他にも政府関係の建物が多い政治の中枢であることから、ここだけは計画停電の範囲に含まれることはまずないだろうと言われています。そういった意味では、私はまだマシな環境にいるのかも知れないし、停電中は帰宅か待機を命じられているような知り合いに比べれば、時間通りに業務をできるだけありがたい話なのでしょう。しかし、震災の影響は確実に仕事も蝕んでいく。事実は忘れたり隠したりすることはできるけど、逃げることだけは絶対に出来ないから。
出版業界が地震で受けた被害は酷いです。本社が壊滅したり、流通倉庫が使いものにならなかったりと、そういった意味での被害もさることながら、本を出すことの意義のようなものが、地震と共に崩れ去ってしまった。だって、今は皆本なんて読まないでしょう? 本を読む暇があったら、テレビのニュースを観るのが当たり前となりつつある中で、本なんか出しても売れるわけがないと、そういうことです。出版社がそんなことを言ったらお終いだろうと思われるかも知れないけど、世の中には市場ほど正直なものはありませんからね。結局、自粛や規制ってのは不謹慎やそぐわないという以前に、それほど人から望まれていないということを、自粛や規制する側がよく認識しているから起こるんじゃないかな。まあ、事情はそれぞれ違うんだろうけど、今はどこも似たようなものです。
私がNHKしか観ていないのは情報量が多いことと、常にニュースばかり放送しているイメージがあるからでしょうか? 実際はそうでもないんでしょうけど、日中は家にいないから、返って来る既にニュースの時間になってますしね。まあ、CMがないってのも煩わしさを感じない上で大きな利点ではあるし、ネットで話題になっているACのCMを私は最近まで見たことがなくて、それこそラジオで音だけ聴いたという感じでした。ネット人というのはおかしなもので、民放の報道の仕方などを批判するくせして、誰よりも民放を見ているような気がします。大体、見ているからこそ批判も出来るのであって、見もしないでなにか言うのは、ただの言い掛かりですからね。件のACのCMがしつこすぎるという話も、私みたいに民放を観ていなかった人間にはイマイチ実感の沸かない話でしたし。
会社に泊まったときに感じたけど、一つのチャンネルをずっと観つづけることなんて人には無理なんですよ。絶対に飽きるし、気分を変えたくなってくる。私の場合はCSでそれを満たしているから構わないけど、そういうのがない人は地上波から選局するしかありませんからね。以前の日記にも書いたとおり、私は別に国営放送だからどうだとか、民間放送だからなんだとか、そういうことは関係ないと思っている。物にはそれぞれの色合いや風向きというものがあって、どれもが同じにして、均等であることなどありえないのだから、多少の違いぐらいはあったほうがいいんですよ。情報の流し方も、その解釈も、この非常時にこういう表現が正しいのかは分からないけど、みんな同じだとつまらないし、消耗品でもないものが複数あっても意味なんてないでしょう? まあ、それは個人の感じ方にもよると思うけど、私はそんな風に考えています。
今まで私にとって、災害というものはどこか縁遠い話だった。震災というもので記憶にあるのは阪神大震災だけど、あれは西日本で起きたことだし、あの震災が起きたことで私の生活のなにかが変わったわけでもなかったから、私にとってはどこか現実味のない、テレビの中の出来事のように感じられた。随分、淡白だと自分でも思うけど、それは新潟中越地震のときもそうであったし、人間なんてものは自分やその周囲でなにかが起こらない限り、事実というものを簡単には認識できないものなのだ。今回の震災はその点が違い、私は帰宅困難者として会社に泊まることとなり、今現在も計画停電という制限を課せられななかで暮らしている。電車の本数は減って混雑は以前の数倍となり、行きの電車で疲れ果て、会社の業務で悲鳴も枯れ、帰りの電車でトドメを刺されるといった日々をこのところ送っている。それは仕方のないことであるし、首都圏に住む人であれば誰もが似たようなものなのだと思うけど、こうして自分の生活や暮らしに影響が出始めたことで、私は災害や震災というものを明確に認識するに至ったんだと思う。それこそ、これが初めてと言っていいほどに。
私は出版社の街である神田近辺で仕事をしており、神田がある千代田区は他にも政府関係の建物が多い政治の中枢であることから、ここだけは計画停電の範囲に含まれることはまずないだろうと言われています。そういった意味では、私はまだマシな環境にいるのかも知れないし、停電中は帰宅か待機を命じられているような知り合いに比べれば、時間通りに業務をできるだけありがたい話なのでしょう。しかし、震災の影響は確実に仕事も蝕んでいく。事実は忘れたり隠したりすることはできるけど、逃げることだけは絶対に出来ないから。
出版業界が地震で受けた被害は酷いです。本社が壊滅したり、流通倉庫が使いものにならなかったりと、そういった意味での被害もさることながら、本を出すことの意義のようなものが、地震と共に崩れ去ってしまった。だって、今は皆本なんて読まないでしょう? 本を読む暇があったら、テレビのニュースを観るのが当たり前となりつつある中で、本なんか出しても売れるわけがないと、そういうことです。出版社がそんなことを言ったらお終いだろうと思われるかも知れないけど、世の中には市場ほど正直なものはありませんからね。結局、自粛や規制ってのは不謹慎やそぐわないという以前に、それほど人から望まれていないということを、自粛や規制する側がよく認識しているから起こるんじゃないかな。まあ、事情はそれぞれ違うんだろうけど、今はどこも似たようなものです。
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