古典部シリーズのアニメである氷菓が始まってしばらく経ちましたけど、ここ二週ほどは長編ではなく短編からのアニメ化が行われています。大罪を犯すはほぼ原作通りだったから良かったんですけど、ツイッターで目にした話によると、数学教師だから小文字のほうが使い慣れているという理屈は、本来ならありえないらしいですね。理系が言っていたことなので間違いないのだと思いますが、所詮は文系から見た理系または数学者のイメージに過ぎなかった、ということだろうか? 私はガチガチの文系だけど、それだけに初読時から今に至るまで、これを疑問視したことはなかったからね。

まあ、大罪を犯すはああいう話だからということで、私は別に構わないのだけど、問題は正体見たりの方でね。ツイッターで散々呟いているから耳にタコができている人もいるでしょうが、私はどうしてもあのラストに納得がいかない。だって、原作とオチが違うじゃないですか。文庫で言うと4巻目に収録されていることから勘違いしがちですが、そもそも正体見たりという話は古典部シリーズでもかなり古い作品に辺り、今から十年ほど前にザ・スニーカーへ掲載された短編作品だったりします。古典部シリーズはそもそもスニーカー文庫系列のレーベルから出ていましたから、まあ、その縁でラノベ雑誌であるザ・スニーカーにも載ったんですね。大罪を犯すも確かそうだったと思うけど、ラノベ雑誌という関係上、挿絵や口絵がないわけにも行かず、イラストレーターの高野音彦による古典部の面々が描かれたことが思い出せます。実は、来週から始まる愚者のエンドロールも、最初に刊行された頃は高野音彦によるカバーが付いてたんですけどね。再刊されるにあたって、岩郷重力のWONDER WORKZによるデザインへと変更された経緯があります。
ちなみに私の手元にはザ・スニーカーも、高野音彦版のカバーもあるわけですが、正体見たりという作品はザ・スニーカーから遠回りの雛へ収録される際にも改定や加筆が行われており、今回のアニメ化において更に手が加えられた、と言うことになるんですよね。

具体的になにが違ったのかというと、前述の通り「オチが違う」わけですが、原作においてあの姉妹というのは仲が悪い、あるいは仲が悪いと思われる、という描写でラストを迎えます。あんな風に、姉が妹を背負って、あたかも仲良しであるかのような演出はなされないのですね。つまり、千反田さんは沈んだままの表情で終わり、奉太郎はそんな彼女になにも声を掛けられない、どうしてやることも出来ない自分に暗澹たる気分を覚えるという、まさにほろ苦い青春を書いたかのような作品だった。しかし、アニメは最後に姉妹が本当は仲良しという、どう見ても千反田さんへの救いを入れることで、まるでハッピーエンドのような話に変えてしまったわけです。
これは正直、どうなんだろうと思った。私が原作至上主義者なのを差し引いても、作品のラスト、オチを変えるってのは、もっとこう慎重に行われるべきじゃないか。勿論、ハッピーエンドそものもが悪いと言うつもりはないけど、苦味を効かせた、本来コクを楽しむべき料理に、当店風のアレンジと言わんばかりに大量の砂糖をぶちまけられた気分なんですよ。暗いラストであるといっても、心に傷が残ったり、トラウマになるというほどの話ではないし、そりゃあ、千反田さんは悲しかったかもしれないけど、人間ってのはそうやって大人になっていくものでね。
多くの視聴者が苦い料理は好きじゃないってのもわかるけど、だからといって安易に味付けを変えても、砂糖を振り替えても不味くなるだけじゃないだろうか。非情なようだけど、あのとき、あの瞬間に千反田さんを笑顔にする必要はなかったし、私に言わせればただの蛇足でしか無かったと思う。

しかし、そんな安易な救いという蛇足で合っても、作っているのが京アニであるからして、ファンは「さすが京アニ!」と言った感じに褒め称えるのでしょうね。本当はそういうのもどうかと思うんだけど、こればっかりは制作会社のブランド力が強すぎるから、諦めるしかないのでしょう。ここが作るから名作であり、傑作である。そして大作でなくてはいけないなんてのは、却って作品を殺すようなきがするんだが。
ちなみに正体見たりは上記にも書いたように10年前の短編ですから、後々の伏線みたいのが結構散りばめられています。例えば千反田さんが姉弟が欲しいといったことや、他にも色々と。アニメのみの人はまるで気付いてないようですが、そういう人はさっさと原作を読めば良いと思う。今月には、5巻目も出ることですしね。これでも一部、正体見たりと繋がりがありますから。

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