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感想その1→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230057509989/

さて、こうして神のみぞ知るセカイは完結を迎えたわけですが、私にはいくつか思うところがあります。根本的なことを言ってしまえば、選ばれることのなかった天理への悲哀ですが、それ以上に、最終回の桂馬に対する非難の気持ちが強い。
何も別に、桂馬がちひろと結ばれたことに異を唱えるつもりはありません。出来れば天理が良かったという想いがないかといえば、そういった感情も確かにあるのだと思いますが、それは他ヒロインのファンだって、大なり小なり似たようなものでしょう。

私が桂馬に対し不可解に、いや、不快感を覚えているのはそういうことじゃなくて、彼が最終回で見せた異様なほどの非情さと、そっけなさについてです。非情さというのは、言うまでもなく天理に宛てた手紙について。先週の時点で、私は天理のエンディングが存在しないことをある程度覚悟していました。所謂、幼馴染のジンクスというのがあったし、TOYOTAや将来の結婚相手にしたところで、所詮はゲーム理論に過ぎなかったから。
それに……天理はシンデレラではなくジュリエットだった。天理は自らを犠牲にする短剣は持っていたけど、王子様が迎えに来てくれるガラスの靴は、持っていなかった。
桂馬はちひろとのエンディングを迎えるにあたって、一方的に宿主達との関係を切り捨てています。二階堂も自分勝手な理論だと言っていますが、桂馬自身、彼女たちとの関係を強制終了したと言っているのです。ベストでもベターでもなく、誠実さの欠片もない、強制的な関係の破綻。桂馬は宿主達を、6人同時に振りました。
もっとも、この方法自体は女神篇の時点で桂馬が考えていたことではあります。
6股関係を精算する方法として、すべてを暴露して嫌われる。浅はかですが、他にやりようもなかったのでしょう。女神篇までなら、確かにこのやり方でも良かったと思います。桂馬は女神と宿主を助けた側ですし、貸し借りの意味では貸しがあるわけですからね。彼がすべてを投げ出そうとしても、無責任とは言いづらかったかもしれません。
しかし、過去編を、ユピテル篇を経験してしまうと、事情は大きく異なります。女神の宿主である少女たちに穴を開けたのは桂馬で、桂馬が現代に戻って来られたのは、天理の献身と、宿主達の尽力があってこそ。貸し借りの面で言うなら、チャラになったか、今度は桂馬が借りを作ったといえるでしょう。
そんな相手に対して、桂馬はどこまで誠意を見せたのか? ベストを尽くすことは出来たのか? ハッキリ言って、それはノーです。桂馬は何一つ、やるべきことをやりませんでした。だって本人からして、強制終了したと言っているぐらいですからね。ちひろへの想いを打ち明けることによって、最低限の事を果たしたかのように見えますが、歩美の言うようにいつもの桂馬だったというなら、そこに誠実さがあったのかどうかも怪しいものです。

私としては、桂馬には強制終了などして欲しくはありませんでした。別に責任取って全員と付き合えとか、ハーレムルートを切り開けなどと言うつもりはないです。私が今回の桂馬の行動で許せないのは、天理に宛てた手紙の非情さもさることながら、宿主の少女たちに対する扱いの軽さにもあると思います。
桂馬は確かに宿主の少女たちを振りました。ちひろへの想いという明確な理由をつけて、彼なりの結論は出したのかもしれません。しかし、何故それを6人同時に行うのでしょうか? どうして、彼は宿主一人一人と、天理と向き合うことをしなかったのか。
強制終了というのは、言わば切り捨ても同じです。エルシィがエルシィという存在を強制的になかったものにしたように、桂馬もまた、関係性を強制的に寸断することで、宿主達を突き放しました。確かに桂馬がちひろのことを好きな以上、彼が宿主達を幸せにすることは不可能です。
けれど、何も突き放すことはなかったんじゃないかと思うのです。突き放すのと、背中を押すのでは、受ける印象も、桂馬に対するイメージも大分変わります。それぞれの宿主と向き合い、話し、自分の本音や本気の気持ちがあるのなら、一人ずつそれを語って納得させ、最終的に振るのだとしても、宿主が新しい道を歩きやすいように背中を押してやる……桂馬には、その責任があったのではないかと考えています。
桂馬は最低限のことはしたのかもしれません。でも、それは決して男らしい決断ではないし、けじめの付け方としては、本当に粗雑なものでした。

私が個々の宿主と向き合うことに拘るのは、彼女たちと桂馬の関係に起因します。
確かに桂馬からすれば、宿主は数いる攻略ヒロインの一人であり、それが女神持ちという関連性を帯びただけにすぎないのかもしれません。しかし、前述のとおり、あの日白鳥家に集まった宿主の少女たちは、桂馬のためならばすべてを投げ出せる気持ちの持ち主でした。
そして何より重要なのは、彼女たちは女神の宿主であるという共通点は持っていても、桂馬への想いそのものを共有しているわけではないのです。
彼女たちはそれぞれが桂馬と違う出会い方をして、異なる恋をした一個人なんです。そんな相手を6人一纏めに考えて、一度に突き放すなんて、酷いじゃ話じゃないですか。
ましてや、桂馬のちひろルートの扉を開いたのは天理です。そして、桂馬が現代に帰ってこられたのは、宿主の少女たちが持っていた、彼に対する強い愛の力です。にもかかわらず、桂馬は躊躇うことも、考慮も配慮もすることなく、一方的に終了させた。これが非難に当たらなくて、なんだというのでしょうか。
運命をぶち壊すと、かつて桂馬は天理に告げました。しかし、彼が天理に歩かせた10年は、エンディングのない、横道にそれることの出来ないものでした。結末は確定していて、覆すことは出来ない。天理と桂馬が結ばれなかったのは、このルートにおける運命なのだと言っても、別に間違ってはいないはずです。
あの薄情な手紙にしても、桂馬には今一度天理と向き合う必要はあったはずです。ルートの扉を開き、ここまで自分を導いてくれた少女に対し、感謝の意を示し、労をねぎらい、その上で決別を告げることも出来たはずなんです。なのに、桂馬はそれをしなかった。彼は最後の最後になって、天理と向き合うことから逃げたのです。
手紙には、天理の労苦に対するねぎらいの言葉も、10年の献身に対する感謝の一文もありませんでした。あるいはどこかに書かれているのかもしれませんが、読者の目に映らない以上は同じことです。桂馬の誠意や誠実さなど、感じようがありません。

最終回の桂馬は、意外な二面性を有しています。
それはちひろに見せた純粋さと、天理に見せた非情さ。宿主達に見せたそっけなさも加えれば三面になりますが、この事実は、最終回を終えた桂馬に対し、素直に祝福が出来ない異様な状況を作り出しています。どうして作者は、桂馬の物語をこのように書き上げたのでしょうか? たとえばギャグ調でもいいから、宿主達との関係解消に奔走する桂馬みたいのを、1ページでいいから描いておけば、大分印象は違ったと思います。
勿論、天理とだけは真剣に向き合わなければいけないのでしょうが、少なくとも桂馬が宿主達のために最後の務めを、責任を果たしたことが分かれば、もっと素直におめでとうとか、お疲れ様という言葉を掛けてあげることが出来たはずなんです。
桂馬にそこまでする義務があるかどうかは、意見が分かれるところでしょう。桂馬自身、攻略は自らの命を守るためにやってきたことですし、桂馬もまた巻き込まれたのだといえば、それは確かにその通り。けれど、桂馬が巻き込まれ、本意ではない攻略を行ったのだとしても、桂馬は攻略女子に対して真剣だったではないですか。真剣に少女たちの悩みや問題と向き合い、時には体を張って、心の隙間を埋めてきたのです。だからこそ、少女たちも桂馬に恋し、愛することが出来た。
後輩である生駒みなみの攻略を行ったとき、桂馬はどこか感傷的な物言いをしていました。
「でも…君も僕を忘れる…」
これは攻略女子と真剣に向き合い、出会いと別れを繰り返してきた桂馬の、寂しさの現れなのだと言われていました。現に桂馬は、女神篇の再攻略時にみなみと再会し、やはり自分のことを覚えていなかった事実に、言い知れぬショックを感じていました。

「いくつもの終わりがあって、いくつもの新しい世界を見て…」

「ボクら…大人になるんだ」

「でも安心して…終わっても、残ってる!!」

「すべての終わりが、みなみちゃんの力になる!!」

「ボクもずっと…みなみちゃんを見てる!!」

「だから、心配しないで。前に進むんだ!!」


みなみに対して一種の執着と、そして切なさをみせた桂馬が、何故最終回では攻略女子に対して、こんなにも冷淡な態度がとれたのか。彼女たちは一度記憶を消されても、また同じ人を好きになることが出来た素晴らしい娘さんたちじゃないですか。桂馬はどうして、そんな相手をこうもぞんざいに扱えたのか。
それに強制終了というやり方自体、成功したのかどうか分かりません。天理は手紙という別要因に、桂馬の本心を知り尽くしているという事情がありますから、諦める以外の選択肢は無いのだと思いますが、桂馬が女神篇で想定していたやり方を使いまわしたことについては強い違和感を覚えます。
何故なら、過去編……ユピテル篇の初めに女神達が話し合いの場を設けたとき、ディアナから桂馬のやり口は伝えられていたからです。桂馬はこのようにして関係を精算するつもりだった、と。それに関してはウルカヌスやマルスは不快感を示しますが、しかし、アポロの反応はそれと異なるものでした。
「そういうところは甘いの、ムコ殿も。そんなことでは嫌いになれんぜよ」
女神達を覚醒させることの出来た宿主達の愛は、その程度で潰えるものではない。アポロの言葉は正鵠を射ており、一度振られたから、はい、そうですかと諦めが付くような愛や恋も、彼女たちは最初からしていないのだと思います。桂馬はその辺りを甘く見ているというか、宿主の少女たちの中にある愛を、軽んじているのではないかと感じました。
それに、もし仮に宿主の少女たちが桂馬の言葉にショックを受け、彼のことを嫌いになったとしましょう。そうすると桂馬に向けられていた愛の力が急激に減少し、女神達は翼も輪っかも失い、宿主と入れ替わることすら出来なくなったはずです。女神篇でのメリクリウスがそうであったように、女神達は宿主から離れることが出来ず、封印ないし眠りにつく恐れもありました。これは宿主の少女たちにとって、ある意味ではリスクになったことでしょう。そして最悪の場合、心の隙間が再発した可能性も否定出来ません。ハクア曰く、恋愛での攻略は隙間の再発が起こりやすいそうですし。
あるいは逆に、激情に駆られたら? 宿主の中に桂馬を害そうとする娘はいないと思いますが、振られるとなれば話は別ですし、あるいは中にいる女神が義憤を感じたかもしれません。ウルカヌスやマルス辺りが制裁を、天罰を加えてきたらどうするつもりだったんでしょうか? 桂馬には、為す術がなかったはずです。それとも、死んでもいいぐらいの覚悟があったのか?
桂馬が少女たちの愛をどの程度に見積もっていたのかは分かりませんが、これはまさしく他人の気持ちがわからない桂木桂馬という少年の、明確な落ち度だったでしょう。

問題は何故、桂馬に敢えて非難の余地を残したのかです。
描き方次第では、桂馬は誰からも祝福され、労われ、絶賛される主人公として物語を締めくくることが出来たかもしれません。なのに何故、彼はそれを放棄して敢えて読者から非難される道を選んだのか。ここからは、キャラクターへの考えと、作者の思惑について、二つの理論が入り交ざります。
まず、桂馬が宿主達と一対一での決着を付けなかったのは、単純に尺がなかったというのもあるでしょうが、もっと言えば天理と向き合うことを避けていたのではないでしょうか? 桂馬が手紙通りの冷酷な人間でないのなら、流石に10年間、報われることのない無償の愛を注いだ天理に対し、何らかの感情は沸くはずです。
恋愛感情ではないのだとしても、哀れみか、憐憫か、同情のようなものは抱いてしまうでしょう。もし、天理が縋り付き、いや、縋り付かなくても、桂馬が同情心に負けて彼女に手を差し伸べてしまったら? 同情心で相手を選ぶなんて非常識だ、失礼だという意見もあるでしょう。私だってそう思います。けれど、天理自身がそれを拒まなかったら? 天理は自分に差し出された手なら、それが同情の念からなるものでも、間違いなく掴んだことでしょう。桂馬は恐らく、そうなることを恐れて天理との対話を避けたのです。自分の心の中をすべて見透かされる相手だからこそ、桂馬には天理と向き合うだけの勇気が持てなかった。
そう考えたとき、ちひろという存在は、天理や宿主達からの逃げ道としての側面があったことも分かります。桂馬は照れ隠しのようにシステムだとか言ってましたが、実状としてはちひろが彼の逃げ場として存在していたことが、否定できなくなっています。

どうして桂馬は天理を選ばなかったのか? これに関しては酷く簡単な説明を行うことが出来ます。天理にとっては非常に残酷な話ですが、桂馬は決して天理のことを嫌いだったわけではないと思います。でも、それと同時に興味や関心もなかったのではないでしょうか?
天理は、かつて桂馬と遊園地に出掛けた回でこの様に発言しています。

「桂馬くん、多分…私のことなんとも思ってないよ…」

好きの反対は嫌いではなく無関心。桂馬は恐らく、鮎川天理という幼馴染に、必要以上の関心や興味を抱くことが出来なかった。天理が女神篇で桂馬のことを好きだと言ったときでさえ、さしたる反応を見せなかったことからも、それは窺い知れます。冷淡なように思えますが、実は天理に限った話でもないのです。例えば、ハクアはとある印象的な台詞を桂馬に残しています。

「お前、私に、関心ないの!?」

思いの丈こそ伝えることは出来ませんでしたが、ハクアは桂馬に恋する乙女の一人でした。そんな彼女が、桂馬が自分に対する関心を示さない、無関心だったときに発したのが、上記の言葉です。一見すると恋に空回っているハクアが微笑ましいかのようなシーンですが、実のところハクアの指摘は、大部分で当たっていたのだと思います。
桂馬はハクアに、いや、他人に関心が持てない。ハクアや天理、それにディアナは確かにファンタジーの世界に属していますが、それと同時に現実を生きる存在でもあります。当時の桂馬が、リアルに関心を示すことなどあり得ないのです。だから天理にかぎらず、ハクアであろうとディアナであろうと、桂馬が他者に関心や興味を持つことはない。攻略対象の情報も、攻略に必死なデータとして入手していたに過ぎません。

また、天理は上記の発言に加え、過去編でも桂馬の恋愛観についてこの様に評しています。

「桂馬くんは……誰も好きじゃないもん…」

結局、ちひろのことが好きだったので天理にしては珍しく外れたのかと思いきや、これもまた事実なんです。上記の台詞、これは過去編での台詞になりますが、意味合い的には遊園地でハクアに言った台詞と同じものがあるでしょう。そして、あの時点においては、おそらく桂馬はちひろに対する恋心を抱いていないか、あるいは自覚していなかったに違いありません。しかし、天理は既に手紙を読んだ後だから、桂馬が自分に興味がない、エンディングを求めていないことを知っていた。だからこそ、天理は断言することが出来た。
では、過去編のときはどうでしょうか? 桂馬が上記の言葉にショックを受けたのは、やはりちひろとの一件があったからでしょう。直後に幼少期のちひろに遭遇してしまったというのもありますが、桂馬は自分が抱きかけていたちひろへの気持ちを、事実だった人となりや人間性を指摘されることで、大きく揺れ動かされたのです。だから、桂馬は天理の前から離れようとした。
天理が上記の台詞を言った理由の一つに、彼女がそのときはまだ自分が会話をしている桂馬が、10年後の桂木桂馬であることを知らなかった、というのもあります。故に天理からみた桂木桂馬はいつもゲームをやっている、現実に対する関心の薄い少年に写っていたのでしょう。そして、そんな彼が誰かを好きになることはない。桂馬をよく観察した上での発言だったかと思います。既にちひろへの気持ちを持っていた桂馬としては、ショックというか、痛いところを突かれたとは思いますけど。自分のそうした人間的な欠落や欠如が、今日の事態を招いていたとも考えられますから。しかし、天理はそれと同時に桂馬がいつもと違うことにも気付いていた。うらら篇において、桂馬の嘘泣きをさり気なく見抜いていることからも、基本的に桂馬のことはよく見ている子なんですよね。

では、天理は何故桂馬がちひろに抱いていた恋心を察することが出来たのか?
どうして、ずっとちひろの元に帰りたがっていたのを知っていたのか。
少なくとも、10年前の時点で天理はちひろの存在を認識していないはずです。
手紙にそう書かれていた、という可能性もあります。ちひろの項目もあったようですから、もしかしたらそこに思いの丈が書かれていたのかもしれません。けど、もっと直接的に、天理は桂馬の本心を知る機会があったはずです。

それはいつか? 10年前、桂馬が香織と最後の対決をした時です。

結崎香織はどうしようもない悪党でしたが、その思想と思考は非常に現実的で、極端なリアリストでした。最終回の桂馬に対する批判の一つに、結局香織に言われた通りの結果になってしまったというのがあります。
香織は桂馬に、以下の様な幸福論を語っていました。

「桂馬くんはすごく頭がよくって有能…でも、今のままじゃダメ。なぜだかわかる?」

「他人のために力を使ってるからよ」

「こんな風に人を助けたりする。人生をムダにしてるわ!!」


「人を助けて…何がいけない……?」

「ねぇ、桂馬くん。ゲームってやったことある?」

「ああ……」

「ゲームの世界なら、自分が幸せならみーんなも幸せでしょう?」

「でも世の中は……みんなが自分のゲームを遊んでいるようなものなの!!」

「みんながひしめきあって、幸せを取りあってる!!」

「幸せになるためには、他の人をギセイにしないといけないのよ!!」


断言される香織の幸福論。夢も希望もない極端すぎる現実志向ですが、これは香織の出自にも関係しています。香織は本人の弁によると両親がおらず、ここからは推測ですが、恐らく施設か何かで暮らしているのでしょう。別に親戚の家でもいいですが、彼女が表面的ないい子ちゃんを演じて、内心にあそこまでの鬱憤を積もらせているのは、境遇的に自由のない、我慢を強いられているという事情があったのでしょう。
年下の扱いが上手い、後輩から慕われているところを見ると、やはり施設での集団生活を経験しているような気がしますけど、この境遇や経歴って、誰かに似てますよね?
そう、桂馬の妹として転生したエルシィです。彼女も又、両親や家族がおらず、救命院という施設の出身であることを語っています。
香織は自分が幸せになるため、悪魔の力を借りて他の女子児童を犠牲にしようとしていました。しかし、桂馬はそんな香織の姿勢を否定し、お前はゲームを舐めている、難しいゲームを簡単に済ませようとする奴に、ハッピーエンドは来ないと断罪します。けれど、エルシィはどうだったでしょうか? 彼女が桂馬の妹に、桂木家の家族になったのは、本人の努力というよりはラスボスとしての超常的なパワーを発揮した結果です。
持ち前の力かどうか、というだけで、実のところ香織とやっていることは大差ないのです。勿論、エルシィは他人を害するような方法を取りませんでしたが、それでも彼女が桂木えりに生まれ変わるため、犠牲にされたものはあります。もし、この場面にエルシィが遭遇していたら、一体香織の語る幸福論にどのような感想を抱いたのでしょうか? あるいは、感銘を受けるようなことも、あったかもしれません。

桂馬は香織の幸福論に対し、以下の様なやりとりをしています。このやりとりを持って、結局桂馬は香織の言うとおりの結末になったと言われるのですが、本当にそうでしょうか?

「お前は……間違ってる」

「すべての人が幸せになる結末が……あるはずだ!!」


「夢みたいなこと言うのね、桂馬くんは」

「そうだ…ボクは夢をみてた……」

「でも…見えた気がする…」

「理想のセカイが、どういうものなのか…」

「ボクはたどりつかなくちゃいけない。本当のエンディングに」

「そのために、ボクは元の世界に戻る!!」


この発言から、桂馬はあくまで理想の実現を追求するつもりなのだと思った人が多いことでしょう。すべての人が幸せになれる、理想のセカイ。それが最終回において果たされなかったことから、香織の指摘は正しかったと言われることになりました。
でも、よく考えてみると桂馬は香織の理論自体は否定しましたが、己の理想を正しいとは一言も言ってないのです。むしろ、「夢みたいなこと言うのね」という香織の指摘に対して、「そうだ…ボクは夢をみてた……」と、自分の理想が夢だったことを肯定しています。その上で桂馬が垣間見た理想のセカイとは、本当のエンディングとはなんなのか? 元の世界に帰ることを切望した桂馬。この姿を、天理は目撃していたのです。
ちひろのいる元の世界に帰りたい、本当のエンディングに辿り着く。そんな桂馬の姿を観てしまったからこそ、天理は桂馬がちひろの下に帰りたがっていたと、ハッキリ断言することが出来たのでしょう。
桂馬が理想を追求しなくなったことは事実です。でも、それは彼にとっての理想が一つの変化を遂げたのだと思います。夢に見ていたみんなが幸せになれる結末、それとは違う理想の世界が。それがどういうものか分かったからこそ、彼は今までの夢を捨てて、全く違う理想を追い求めることになった。だからこそ、彼は最終回であんな穴だらけの対応しか出来なかったのだと思います。桂馬がたどり着いた理想と本当のエンディングは、完璧ではなく理不尽な世界だったから。彼は理想の先駆者ではなく、理不尽の体現者になった。宿主達への仕打ちも、理不尽の一言に尽きますからね。

では、どうして桂馬は完璧さを失ったのでしょうか? 宿主達と天理に非情な仕打ちをして、読者から非難されるように仕向けたのか。キャラクターとしての考えは上記のとおりとして、では、作者的にはどうなのか? 主人公を最終回で嫌われるようにする。非難の対象にするというのは、少年漫画の観点から言えば割と珍しいことだと思います。
どうして、最後の最後で敢えてそのような書き方をしたのかといえば、これは完璧さと理想を追求しなくなった桂馬に対する、主人公を辞める彼に対しての、作者なりの意趣返しだったのではないかと、そう感じるのです。そしてもっと言うなら、選ばれなかったヒロインのファンたちへの、一種の礼儀だったのかもしれません。ちひろエンドを否定しないと言ったところで、出来ることなら自分が好きなヒロインとくっついて欲しかったという人はいるだろうし、それが桂馬批判に繋がらないのだとしても、感情として尾を引いていることは間違いありません。そんなファンたちに対しての、けじめのようなものを桂馬に付けさせたのではないでしょうか? 彼はやっとの思いでエンディングに辿り着いたけど、それは万人から祝福されることのない、理不尽なものだった。
このようにすれば、矛先があるだけ、ファンの心理や心情は幾らか軽くなりますからね。天理や宿主ばかりが割りを食ったように思えますが、その実、桂馬やちひろも同じようなものなのです。最終回がこうである限り、二人を素直に祝福できないファンは、少なからずいると思うから。

最後に天理の話をもう一度だけしますが、遂に天理は桂馬に対して本当の告白をすることが出来ませんでした。桂馬自身が、天理にその機会を与えなかったのです。まあ、それは他の宿主に対しても同じなんですが、天理にとって見れば過去から帰ってきた桂馬こそが、彼女が初めて恋し、愛した存在だったとも言えます。
現に、天理が最終回で思い浮かべた桂馬の姿は、台詞の回想だったこともありますが、子供の頃の姿をしていました。天理はどこまでも、過去から来た女だったのです。未来かじりつこうと必死になった桂馬と、過去の想い出を大事にする天理では、それがどんなに美しくても、相容れることはなかったのかもしれません。
天理はどこまでも美しく、そして気高かった。しかし、天理が天理であるが故に、彼女が無償の愛を注げば注ぐほど、桂馬との距離は離れるしかなかった。天理が天理で在り続ける限り、決して結ばれることはないなんて、なんて残酷な話だろうか。
又、月夜のところで書いた天理と月夜の決定的な違いは、友人の存在です。天理には、月夜と違って桂馬のことを、女神の宿主であることを共有する友人がいません。月夜が栞という知己を得たのに対し、天理は他の宿主とは学校が違い、交流を持つことが出来ません。元々が内向的な性格ということもあり、自分から積極的に連絡を取るようなことも、きっと出来ないでしょう。
天理にはディアナが残りました。けれど、逆に言えばディアナしかいないのです。もし、何かの理由でディアナが天理の中から姿を消してしまったら? 天理はきっと、その事実に耐えられないでしょう。また、天理自身も自分にはもうディアナしかいないという、そういう気持ちを抱かざるをえないと思います。つまり、今まで以上にディアナに対する依存心が増し、最終的なディアナ離れが出来なくなるかもしれないのです。
ディアナ自身、天理に対してはかなり過保護な方ですし、この二人が幸せを探すというのは、言葉以上に難しいことなのかもしれません。まあ、一生一緒にいても良いじゃないかと、そういう考え方も出来ますけど。最終的にはディアナと一体化して、天理自身が本当の女神になったりとかね。永遠や究極といった意味では、一つの答えにはなるかと思います。

それから長年の疑問として残っていた、ディアナの翼が出た理由ですが……
恐らく天理はディアナに真実を話し、手紙を見せたのでしょう。まさか、手紙の内容があんなのだとは思っていませんでしたから、女神篇と過去編の頃は天理が好きなのは過去に訪れた桂馬であり、今ここにいる桂馬ではないことを伝えたのかと思いました。好きだけど違う、まだ、自分たちは本当に再会していない。
過去編で、天理が桂馬を過去に飛ばそうとしていたとき。彼女はいつも以上に顔を赤らめ、どこか興奮していたように思います。やっとここまで来たよ、という台詞と、後にドクロウといたときに言った、桂馬くんに追いついたよ、という台詞。天理の消極性は、自分がまだ桂馬と対等でない、本当の桂馬と再会していないからこその遠慮だと感じていました。つまり、帰って来てからが、彼女が積極的になる瞬間なのだと。
でも、現実は違いました。天理が翼を出すために必要な決定的な言葉は、手紙に書かれてなどいなかった。お前を選ぶとも、お前が好きだとも、そんな夢みたいな台詞は、ただの一つも存在しなかった。

女神篇の終盤であった、天理とディアナのやりとり。

「桂馬くんは……」

「て、天理………!! どうしてもっと早く言わないのです」


天理は桂馬に、ディアナと今後のことを話しあったと告げています。つまり、このとき既に天理はディアナに真実を、桂馬の想い人がちひろであることを伝えていたのでしょう。ディアナは自分の翼が出ない理由は、自分の中にある罪悪感が原因だと推測していました。天理の想い人を、自分まで好きになってしまったことへの罪悪感。
でも、天理がもしその相手と自分が結ばれることはないと知っていたら? 天理が捧げていたのが、無償の愛なのだと分かったら? ディアナには罪悪感を覚える必要がなくなります。無論、ディアナ自身も失恋することにはなりますが、天理が持っていた大きすぎる無償の愛か、あるいはディアナ自身に対する親愛の情を、ディアナは感じ取ることが出来たのかもしれません。だから、翼を出すことが出来た。
それに、翼が出なかったのはおそらく罪悪感だけじゃない。天理は自分が桂馬と結ばれない宿命にあることを知っていたから、彼からの愛を得られないこと分かっていたから、消極性や遠慮が、翼を折りたたんでいたのかもしれない。
ただ、そうすると一つの疑問が湧いてきます。今となっては茶番に等しくなった女神会議において、ディアナはとある発言をしています。女神会議は、まあ、会議と言うよりはお菓子を食べながら女神達がだべっている、という感じのものでしたが、議題は桂馬とのことをどうするのか、というものでした。女神達は当然のことながら、桂馬への愛が強い宿主の誰かが、最終的に桂馬と付き合うものだと思っていました。女神の宿主というのは、ある意味で攻略ヒロインたちの振り落としのようなものでしたから、エルシィやハクアを除けば、確かに宿主6人の中から誰かが選ばれるというのは、自然な流れだったのかも知れません。当然のことながら女神達は自分の宿主を推しますが、アポロがそんな現状に対して、こんなことを言いました。

「今さらどーにもならん。成り行きにまかせるぞよ!!」

それに対するディアナの発言は、

「そんな無責任な!! 天理はどーするんです!!」

この様に天理のことを考えた発言をしています。仮にディアナが女神篇の終盤で桂馬の真実を知っていたというのなら、ここでまだ桂馬に対して脈や可能性があると思っているのはおかしな話であり、翼が出たことと矛盾します。それに加えて、この話し合い自体が茶番であることを自覚しているはずです。
勿論、天理がほんの僅かに抱いていた夢や希望にディアナも賭けていたのだと、そういう解釈も出来なくはないのですが……ディアナ自身、上記の台詞を除けば積極的に天理のことを推したりしてないんですよね。もっとも、自分自身が桂馬を好きになってしまった事実を姉妹に突っ込まれたからでもあるんだけど。
女神達は過去に行った桂馬の身体、その占有権について争い、それが過去編の合間に挟まれる現代劇として繰り広げられました。各宿主が、自分の知らない子供の頃の桂馬と接した訳ですが、これもまた、最終回を読んだ後だと茶番になってしまう。これじゃまるで、女神達は、道化を演じていたようなものです。

ちなみにそんな女神達ですが、私は彼女たちがまだいることを前提に感想を書いてきましたが、実は既にいないという可能性もあったりします。女神は動体巨人と戦った後、あかね丸を完全修復しており、確かに登場人物紹介欄では各ヒロインとも女神の宿主として紹介されていますが、少なからずその事実は揺らいでいます。根拠としては月夜がルナを連れていなかったこと、それに加えてディアナ以外の女神が一切登場しなかったことと、ディアナ本人の台詞から。

「天理が幸せにたどりつくまで、私はいつまでも天理のそばにいますよ」

この台詞はディアナが天理の為を思って言った温かみのある言葉ですが、天理が幸せに辿り着くまでそばにいる、ということは、天理が幸せに辿り着きさえすれば、ディアナはいつでも彼女の元を離れることが出来るとも解釈出来ます。つまり、宿主の肉体から出ることが可能なのです。
女神の力というのは、愛の力によって段階的に上がっていきます。まず、初回攻略時の影響で女神の意識が目覚める。そして記憶が戻ることで女神の輪が出現し、宿主の身体を動かすことが出来る。更に翼の出現があった訳ですが、段階としてこれは最終形態という訳ではありません。最終的には女神が宿主の身体を離脱し、女神として完全に復活するまでが、女神の覚醒なのです。
では、最終回までに女神達はどの程度の復活を遂げていたのでしょうか? 女神篇以降、桂馬は一週間引き籠もっていたこともあり、宿主達とは顔を合わせていません。栞がふて腐れ、歩美がイライラを募らせていたのはそれが理由ですし、あまり気にしていなかったのは、多忙なかのんと結、それに月夜ぐらいでしょうか? 月夜はルナことウルカヌスという話し相手がいたので暇をしなかったのかも知れませんが、栞や歩美は明らかに感情面でのばらつきを感じられます。逢えない分だけ想いを募らせて、というならともかく、栞などは名前を聞くのも嫌になっていましたからね。
そう考えると、女神篇以降の宿主達は桂馬に対する愛情が下がることはあっても、上がることはないように思えます。最終回の、少し前までは。
ここで忘れてはいけないのが、宿主達が桂馬を帰還するために使ったのも女神の力、つまり愛情の力であると言うことです。天理は歩美を始めとした宿主の少女たちに桂馬の手紙を見せて、桂馬の考えや、少女たちへの気持ちを伝えることで、愛の力を増幅させました。その結果、時間渡航機は修復されて、桂馬は帰還します。
その後は女神達と動体巨人のバトルが始まる訳ですが、女神はその圧倒的な力でこれを撃ち倒すのです。女神が勝負を決めたのは女神篇も同じですが、あのときは戦闘らしい戦闘を行っていません。精々、敵の本拠地を叩き潰したぐらいです。もし、巨人と戦っていたときの女神が、既に宿主の身体から離脱出来るほどの力を取り戻していたとしたら?
しかし、これには幾つかの無理があります。巨人達との戦いで、女神達は当然のことながら宿主の身体を傷付けないことを前提に敵を片付けることを決めました。もし、女神達がこの時点で宿主の身体を離脱出来たのなら、傷を付ける心配からも、女神として現界して戦えば良いだけの話であり、そう考えると身体を出るほどには力が戻ってはいなかった、という可能性の方が強いのかも知れません。勿論、宿主の身体を放置した状態で巨人とは戦えなかったと考えても良いのですが、そんなの女神の誰か一人が防御に徹して宿主と桂馬を守れば良いだけの話ですし、そもそも巨人は女神が苦戦するような相手ではありません。女神の力が、地上では宿主に宿らなければ発揮出来ないならともかくとして。
いずれにせよ、女神が既にいない、あるいはいつでも宿主から離れることが出来る状態にあることは可能性として決して低くありません。宿主の桂馬に対する愛情が今現在どうなっているかにもよりますが、そうでないと女神は宿主の寿命が尽きるまで、身体を出ることが出来ないかも知れないから。
また別の恋をして、愛の力を貯めれば良いという考えはあるのかも知れませんが、結が言うように「こんなすごい恋、もう二度とないかもしれない」訳ですから、今の時点で身体を抜け出せる状態になければ、後々のチャンスがないと思うんですよね。だからこそ、桂馬には女神が宿主と別れるぐらいまでは、見守っていて欲しかったんだけど……あそこまで行ったなら、後少し背中を押すだけで済んだと思うし。天理はともかくね。

天理のことも含めて、不満があるなら二次創作でやればいい、みたいな意見を見かけます。描かれることのない天理へのフォローや救済を二次創作で、と言う訳ですね。正直言って、簡単に言ってくれるな、という気分です。勿論、そういう事象は多々ありますし、中には原作断罪系なる、原作の展開や結末を否定するためだけに書かれているような、そんな作品もあります。
だけど、それとは全く別の理由で、私は天理を二次創作で救済することに、心理的な抵抗感を覚えています。少し複雑な話になるんですが、私は天理が選ばれなかったこと、桂馬と結ばれなかったことへの悲哀や悲嘆を感じてこそいますが、逆に桂馬が天理を選ばなかったことについては、これといった怒りも憤りも感じてないのです。
先週までは、前回までなら確かにそういう感情もありました。天理の10年の献身を何だと思ってるんだとか、この恩知らずとか、そんなことを桂馬に思ったのも事実です。

けれど、天理に宛てられた手紙を見たとき、

「あぁ、桂木桂馬という男に鮎川天理を幸せにすることは無理なんだな」

というのを直感的に悟ってしまったんです。

天理が桂馬の隣にいる事実に幸せを感じることは出来ても、桂馬が天理を幸せにしてやることは絶対に出来ない。あの手紙が、それを決定づけてしまった。
桂馬は確かに天理の傍だと、ゲームし放題だし、自分をさらけ出して、自分が自分でいられるかもしれません。天理はゲームしてる桂馬くんが好きだと言ってますから。しかし、桂馬はゲームに満足することはあっても、天理が隣にいることへの幸せや喜びは感じないと思います。ましてや、それを与えてあげることなど不可能でしょう。
天理もまた同じです。桂馬の幸せを見守ることは出来ても、彼女自身が桂馬を幸せにすることは今のままではおそらく出来ない。
そして桂馬は、自分の思い通りにならない存在に惹かれる傾向にあります。彼が選んだエンディングがそうですし、基本的に桂馬の言うことはなんでも聞いてしまう天理では、彼の心を動かすことが出来ないのです。過去篇で桂馬が天理に突き動かされたのは、天理が桂馬の言いつけを守らず、彼を自分の意志で引き戻したから。それに桂馬は感銘を受け、天理は彼の心の琴線に触れることが出来たのでしょう。でも、普段の天理にはそれがない。
だからこそ、私は天理を二次創作や同人誌で救済しようとは思いません。あの酷薄とした手紙の文面を読んだ上で、それでも天理と桂馬をくっつけるというのは、捏造や妄想、よく言っても願望にしかならないからです。故に、桂馬×天理も、天理×桂馬もあり得ないのです。それぐらい、私にとっては決定的なものでした。

せめて、もう少し早くロミオとジュリエットの意味に気付くことが出来れば、こんなことにはならなかったかも知れません。なまじ、それより前の回が衝撃的だったから、あの舞台が二人の結ばれない宿命を案じていたことに、気付くのが遅れてしまった。
天理はあの舞台で、これも運命だと言った。桂馬はそれを否定した。運命を壊すために、自分たちは戦うのだと。つまり、このとき桂馬は自分が天理と運命共同体になることを否定しています。故に天理は、あの不思議空間で歩美にこう言いました。

「私…桂馬くんが好きだよ。でも桂馬くんは、こんなの運命じゃないって言った…」

「それでも私は、10年待ってたんだ」

「私は、桂馬くんに会いたいよ!!」


この台詞、この発言、今にして思えば天理は自分に脈がないこと、桂馬とのエンディングがないことを自覚していたのでしょう。読み返せば幾らでも出てきそうですが、天理はそれでも桂馬に会いたかった。僅かな夢に賭けたのか、それとも無償の愛を貫いたのかは分かりませんが、ジュリエットはロミオのために最後まで身を捧げたのです。
だけど、それと同時にこうも思うのです。ロミオはジュリエットの死を嘆き悲しみ、彼女の後を追って死を選びました。桂馬は、自身のジュリエットたる天理に、そこまでの感情を向けてくれたのでしょうか? 天理はロミオである桂馬のために身体を張って、心を開いて接しました。しかし桂馬は、シンデレラにガラスの靴を届けることばかり考えて、天理のことをあまり観ていなかったのではないか。
「それでも私は、10年待ってたんだ」
10年という月日をずっと待ち続け、自分に運命もエンディングもないことを悟りながら、それでも桂馬と本当の再会を果たしたかった天理。
せめて天理がシンデレラだったなら、彼女が持っていたのが剣でなく、ガラスの靴だったなら……きっと結末は、違うものになっていたことでしょう。

勿論、幾つかの希望はあります。
ユピテル篇に入る直前、桂馬が巡った幾つかのパラレルワールド。かのん100%などもあの中に含まれるそうですが、もしかしたら、天理が桂馬と結ばれる世界観もあるのかも知れない。
でも、それはあの浜辺で泣いている天理じゃないんです……

天理の涙を拭うことは、誰にもできません。
ディアナにはそれが出来るかも知れませんが、少なくとも、鮎川天理という少女が涙を流して作品を終えたのは事実です。
しかし、作者である若木民喜が筆を置いた今、世界はディアナの言うとおり結末のないものになりました。用意された結末は終わり、誰もが考え、悩み、まだ見ぬ道を歩いて行く。

かつて、天理が未来への扉を開いたように。

空の向こうにある、未来に向かって。


6年間の連載、お疲れ様でした。
単行本最終巻の発売、楽しみにしています。



※発売日中に作者ブログの方が更新されたので、上記考察に補足を加えるため、おまけを書きました。まだ読んでもいいという人がいたら、おまけにお進みください。

感想おまけ→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404231546152015/

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