先月は何故か早川書房の回し者みたいなことしてましたけど、まあ、色々事情があったんですよ。単純な知り合いのよしみというよりは、私が好きだからやったことなんですが、おかげさまで初音ミク特集のSFMも売れまくったようで良かったですね。仮にも創刊50年の歴史で、史上初の重版を果たしたのだから、なにかあってもいいような気がしますけど、そこはまあ早川ですからね。自他共に認めるケチな出版社ですので、多分なにもないでしょう。締まり屋という表現を使うことすら語弊があるのだから、あそこも相当なものです。まあ、私は大変お世話になっているんですけど。

そんな早川書房ですが、先日こんな質問をされました。「あなたは早川書房が出している本で、なにが一番好きですか?」というものです。ミク特集のSFMを買って、早川に興味を持った人から質問されたんだけど、私は少々困惑してしまった。質問としてはありきたりだけど、文庫単位ならまだしも出版社単位ですよ? 例えば、角川書店が出している本でお勧めを教えてくださいとか言われて、まず漫画なのか小説なのか、それすらも判別付かないじゃないですか。質問としてはありきたりだけど、範囲も広がれば大雑把なものになるんだなと、そんなようなことを感じてしまった。
早川書房というのはいくつかの文庫と雑誌、それに単行本を発行している出版社で、代表的なものにSF文庫ミステリー文庫があり、ついでファンタジー文庫や、主に日本人作家のSF等を出すJA文庫があります。他にもノンフィクションとか、ポケットミステリとか、イソラ文庫……は、もうないんだっけ? まあ、色々なものがあるわけですよ。それら全部を引っ括めて好きな本はなにかと言われると、そりゃ答えられなくはないんだけど、個人的にSFとミステリーを同じ土俵で争わせるのは好きじゃない。だってほら、ラノベで例えるなら、もうないけど富士見ミステリー文庫と富士見ファンタジア文庫って全然別物じゃん? いや、今は同じようなもんかも知れないけど、私は今少し細かい単位で好き嫌いを分けたいんですよ。

まあ、個人的な好みで言えばSF文庫が好きですけど、FT文庫、つまりファンタジーなんかも昔はよく読んでましたよ。テリー・ブルックスのランドオーヴァーシリーズなんかが好きだったけど、あれって2009年に続巻が出たらしいね。まあ、今の早川におけるFT事情を考えると、検討はされても本として出ることはないと思うけど、妻を無くした壮年の弁護士が、たまたまギフトカタログで見かけた「魔法の王国売ります!」という記事に興味を示し、私財を叩いて購入するという第1巻のあらすじは心惹かれるものがあったし、是非最新刊も読みたいところなんですが……自分で原書取り寄せて翻訳するしかないのかねぇ。
JA文庫なら桜坂洋のスラムオンラインなんかがお勧めだけど、SF文庫だと迷うね。最近だと彷徨える艦隊が良い感じで、これは銀英伝の艦隊戦シーンが好きな人とかは面白く思えるかも知れないね。先々月のSFセミナーで堺三保が、「彷徨える艦隊は、銀英伝におけるヤン・ウェンリーの奇策部分だけをひたすらやっているような小説だ」と評したのは、なかなか見事な喩えだと思った。まあ、SF文庫はやFT文庫の4倍とか出ているはずですし、一つだけ選ぶとか難しいよね。堅苦しい話も多いけど、最近は新訳版とかも出て読みやすくなってるから、それほど取っ付き難くもないとおもいます。
ミステリーに関しては……私、ミステリーは創元の方が好きだからな。というのも、好きな海外作家がアントニー・バークリーと、フランシス・アイルズだから。ミステリー作家に詳しい人は、クスリとくるかも知れませんが。

とりあえず質問者には「夏への扉」と、アガサ・クリスティーの作品を薦めておきましたが、切っ掛けはなんであれハヤカワ文庫にも目を向けてもらえるようなら嬉しい話です。私も色々書いた甲斐があったというものだ。これ以上は本当に回し者になるから、まあ、またなにかあったときにでも触れるということで。当分はなにもないだろうけど。
6月も終わることだし、ロクゼロのクロスのことでも書きておきますか。まあ、結論から先に書いておくと、あれはもう書く気が起きないので放置しようと思います。物事に絶対はないから、二度と書くつもりはないとか、そういうことは言いませんけど、よっぽどのことがない限りは完結編が日の目を見ることはないでしょう。完結編の告知をしてしまった手前、なんとか書こうとはしていたんですが、色々あって作品に対するモチベーションが下がってね。そう、モチベーションが下がったんですよ。某人の言い回しを借りるなら、ロクゼロクロスでテンションを上げることが出来なくなった? そんなところです。

書けなくなった理由は、他にも対人関係とか色々なものがあるんだけど、暗い話になるので割愛します。ちなみに作品自体を削除するつもりは毛頭ないので、そこら辺はご安心下さい。シャリテクロワールのHPからは改装中ということもあって消してしまいましたけど、pixiv等に行けばネットでは見られるようにしてあるから。まあ、同人誌の再販や改訂版なんかを出すことは絶対にないでしょうから、持っている人は大切にしてくれると嬉しいな。ムック系合わせると全6冊だっけ? あぁ、丁度ヨスガ本と冊数だけは同じなのか。総ページ数は全冊で1000Pぐらいだと思いますけど、よくもまあ、あんなに書いたものだ。
ロクゼロクロスは私が同人として独り立ちした作品でもあるから、想い入れはそれなりに強いんですけどね。今だって別に嫌いになったわけじゃないし、なんの未練もないかと言われれば、多分嘘になると思う。ただ、あの作品は書くのにとてもパワーを使うし、時間だって相当掛けなくちゃいけないからね。下がりきったモチベーションと、上がらないテンションでどうにかするには、ちょっと無茶があるんですよ。同人誌としての先もないしね。
だからまあ、誘い受けでもなんでもなく、ここらで打ち止めにしてしまおうかなと。完結編を楽しみにしてくれていた人には申し訳ないけど、ああいうことになってしまった以上は、私も続ける気が起きないので。誰のせいでもないというよりは、誰のせいでもあるといった感じなんでしょうが、某人の信者に一々説明するのも疲れましたし、某人の発言や行動に対して、今だに引っ掛かりを覚えているのも事実ですからね。そればっかりは、私にはどうすることも出来ないことなので。まあ、プロット自体を破棄するつもりはないから、何年後か知りませんが、気まぐれで書くこともあるでしょう。きっと、多分、そのうち、なんの保証もないけれど。

しかし、今後の同人計画か……夏コミはまあヨスガのアンソロだけで手一杯だけど、そういや去年は3冊だそうとして1冊落としたんだっけ。落としたというか、企画はしてたけど書く時間を取れそうもなかったから制作を中止した本で、rootnukoのid本を出そうとしたんだよね。2010年は個人的にエロゲの不昨年だったんだけど、その中でもidだけは面白くて。処女作ということもあって多少甘い評価をしてたけど、結局プロットまで用意して書くことが出来なかった。自分で言うのもあれだけど、割と良い話だったんだけどね。
同じように今年の夏コミも、本当ならヴァニタスの羊本を出す予定だったんだけど、やはりヨスガアンソロの作業だけで手一杯なところがあって。まあ、書くだけなら出来たんでしょうけど、印刷費の都合とか、そういうのもあるじゃないですか。まあ、ヴァニタス本は完全な小説同人誌として、新書サイズで作ろうと思っていたから、ページ数的にも結構な負担で……それだけ話にボリュームがあった、ということなんだけどさ。
冬コミで出すにはジャンルの需要的にも厳しいと思うんだけど、ネットで公開するには少し惜しい気もして。別にWeb小説を否定するわけじゃないけど、やっぱり、小説は本が良い! という想いが私の中では強いんでしょう。結局のところ、趣味の創作で同人活動をメインにしているのは、本を作るのが楽しいからですし。そりゃ、ネットの方が金かからないのは分かってますけど、同人誌制作って良いものですよ。あの独特な味わいが、私は好きだな。

まあ、ロクゼロに関してはそんな感じで、天地がひっくり返りでもすれば書くかも知れないというレベルです。性質上、私個人の問題というわけでもないから、これ以上の問い合わせを頂いても、私の口からはなにも言えなかったりします。ただ、某人の信者……ファンですか? そういった人たちからの問い合わせなのか分からないようなメールにうんざり、もとい疲れていたのは事実だし、それ以外の人からも沢山質問が来たことも踏まえて、一度しっかり書いておこうかなと、そう思った次第です。具体的なことはあんまりないですけど、とりあえずはこれで勘弁頂ければ幸いです。
電撃文庫から出ている作品に灼眼のシャナというものがあるんですけど、これがこの度3度目のTVアニメ化をするそうです。まあ、発表されたのは随分前だから知っている人は多いと思うけど、私の感覚としては何故今更? という気がしないでもない。原作読んでいる人は知っていると思うけど、シャナってそろそろ完結するんですよ。それに合わせてアニメもラストまで駆け抜けるって言うなら分からないでもないが、ここで問題となるのはアニメ版のシャナが、原作とは似ても似つかぬ駄作であるってことでしょう。

駄作が2回もTVアニメ化して、あまつさえOVAも出すのかよという反論をする人は多いと思うけど、私に言わせればシャナのアニメってのはスレイヤーズと同じことをやろうとして失敗した作品に過ぎません。元々、監督からしてスレイヤーズの渡部高志ですし、なにがやりたかったかというのは明白だと思う。
私の知人にラノベ作家が幾人かいるけど、そのうちの一人曰く「今の作品は視覚的に書かないとウケないとかいうけど、小説というのはあくまで文字を読ませるものであって、文章表現は必ずしも視覚的である必要はない。文章だから楽しめる話というのは、例えそれがラノベであってもあるはずだ」ということらしい。なるほど、と思わないでもないし、アニメ等のメディア展開を前提に書かれている作品はともかくとして、原作をそのままアニメ化するというのは、最初からどこか無理のある行為なんでしょうね。
スレイヤーズというのは最初から軸線がハッキリと別れている作品で、原作があってアニメがあって映画があった。どれも内容は全然違うし、原作とアニメなんてまるで別物と言っていいほどなんだけど、それでも受け入れられたのは時代性というものがあったんじゃないかなと思う。けど、90年代にやった手法が00年代にも通用するかと言われれば、必ずしもそうではないし、シャナのアニメはそこを読み違えたものだったと思う。夢よもう一度なんて考えのもとに、スレイヤーズそのものが再アニメ化されたりしましたけど、無印からTRYと比較して、名作と呼べるほどのものに仕上がっていたでしょうか? 真面目に見ていた人は、各々の抱いた評価があるかと思いますけど、大半の人はスレイヤーズが再アニメ化したことすら忘れているんじゃないか? 私は、そんな気がするのです。

要はなにが言いたいのかというと、シャナの3期なんて企画する辺り、いよいよ電撃も弾切れになってきたのかな? と思う。角川グループ全体ならいざしれず、アスキーメディアワークス単体で考えると、今の電撃にはアニメ化できるだけの人気を持った作品や、それに適した原作というのが少なくなってきていると思うんですよ。ロウきゅーぶやシーキューブなんてアニメ化している辺り、それはどんどん明白になっていて、例えば前者はてぃんくるのイラストを使ってロリ系の絵柄を全面に押し出しているけど、内容自体は割と真面目なスポコンで、そうしたギャップ萌えを楽しむ作品です。一見合わなそうなロリとスポコンですが、小説の場合はイラストが何枚あろうと総容量的に文章のほうが多いですから、あまりくどさを感じることもなく、アンバランスに見えて実はバランスが取れてたりします。しかし、これを映像として始終画面にロリっ娘を映すとなれば均衡が崩れることになり、途端に作品のイメージや面白さが変化してしまうのです。
小説だからこそ通用する話というのは確かにあって、ロウきゅーぶはまさにそういう作品の一つ。おそらく出版社側もそれぐらいのことは理解していると思うんですよ。理解しているからこそ、出演声優にユニット組ませて踊らせてみたり、作品外の要素で儲けようとしているわけ。私は別に、作品の主題歌を主演ないし出演声優が歌うことは否定しないけど、アニメ開始前から声優ユニットを売り出すようなやり方が、原作物のアニメとして正しいのか疑問に覚えます。

先日までやっていた電波女もそうですけど、必ずしもアニメ化する必要のある、アニメで観たほうがいい作品ってのは減ってきている気がするんですよ。それは好意的に解釈すれば、ラノベ的な面白さを追求するあまり、アニメに不向きな作品が増えたとも言えるし、否定的に結論を出せば書き手のレベルが下がって視覚的にも楽しめる作品が減ったとも考えられる。少なくとも、シーキューブやシャナの再アニメ化なんてしている時点で、電撃もそろそろやりつくした感があるんじゃないかなと思う。
最近、CSのテレ朝チャンネルで再放送をやっているので観る機会が多いんですけど、私は平成ライダーの中では555が2番目に好きですかね。というか、この作品以降はディケイドまでまともにライダー見なくなったんですが、当時はハロゲンヒーターだとか散々な言われようだった気がする。バトル的な面白さでは龍騎に劣るものの、作品的な濃さでは上回るんじゃないかな。どちらも井上敏樹脚本の作品だけど、それなりの救いがあった龍騎に比べて、555はなにも残っていないという対照的なところが好きだった。登場人物の裏設定とか、人を見せるライダーだったよね。

私は頭の硬い旧人類ではないから、ライダーは昭和以外認めないとか、平成以外のライダーは化石なんていう、そういう考えとは今のところ無縁です。単純な好みから言えば、やはり世代ということもあってBLACKやRXが好きで、ディケイドに南光太郎本人が登場したときは感動した覚えがあるけど、だからといってライダーはウルトラマンと同じく、シリーズ単位で一括りにしても良いんじゃないかと思う。確かに旧来のウルトラ戦士に比べ、平成のウルトラマンは光の巨人という設定であり、同じようにライダーも表現規制から昭和の頃は当たり前だった改造人間という設定が使えなくなっているけど、そんなものは些細な違いに過ぎないよ。
長くシリーズをやっていると、これは違うとか、こんなものは何々じゃないみたい議論がなされることが特に多くて、ライダーはガンダムと同じぐらい、特にそれが顕著だと思うんですよ。ウルトラマンの場合は設定こそ違えど、やっていることは巨大化して怪獣と戦うという昔ながらのお約束を守り続けてますし、それに対する違和感など発生しようもない。けれど、ライダーやガンダムは新作が発表されるたびに見た目や設定が大きく変わり、同じシリーズでありながら地続きではないんですね。キャラクターの設定という意味では戦隊ヒーローも、その年の流行を取り入れ大きく変化をつけてきますが、やっていることはウルトラマンと同じで変りないですし、その辺の違いがファン心理に大きく影響しているんですかね。
私はシリーズものに対する深いこだわりというのが、実のところあまりない人なので、新作が出ると無条件でそれを受け入れる傾向にあります。勿論、前のほうが面白かったとか、そういう感情を抱くことはありますけど、だからといって新作を否定するほど了見が狭いとも思わない。

しかし、555に話を戻すと、ライダーってのは序盤にやろうとしたことを、後々まで引っ張ることがなかなか出来ない作品だよね。例えば、555は最初の舞台が九州で、バイクでツーリング中のヒロインが、同じくバイクで旅している主人公に出会うといった、どこかロードムービーを思わせる旅物語になっています。事実、序盤数話はそうしたバイクでの移動がメインであり、何話か経過した後に、初めて東京へと舞台が移るのです。訊いたところによると、当初はそうしたロードムービー的な作品にしたかったらしく、それが地方ロケの連続という事情から制作費を圧迫し、序盤で頓挫してしまったとのこと。
私はライダーの制作総予算は知りませんけど、前述のとおりライダーってやりたことを最初にやりまくった挙句、後は無難な作品、展開になることが非常に多くて、最近だと響鬼も同じような感じになってましたね。始終、森の中、山の中でロケをしまくった挙句、予算が底をついて路線変更を余儀なくされたとか。同じような話は初代平成ライダーのクウガにもあるけど、なにか変わったことをやろうとすると、その分だけお金がかかるという良い例ですね。まれに作品なんてのものはタダで作れると勘違いしている人がいますけど、そんな訳はありません。小説だって、ペンと原稿用紙だけあれば書けるもんじゃないのですから。まあ、今はワープロが主流なんだろうけど。

私は今やっているライダーも戦隊も観ていませんし、多分、次回作も観ることはないでしょう。私がそれらを熱心に観ていたのは遠い昔のことであり、仮面ライダー龍騎ですら9年以上前なのです。ただ、たまにCSかなにかで見返してみると、10年経とうと良い作品は色褪せないと思うんですよんね。まあ、単に日本の文明、流行、技術がここ10年であまり変化してなくて、映像の時代や古臭さを感じないからなんでしょうが……まあ、それは昭和ライダーにだって言えることか。そう考えると、丁度中間に当たるBLACKやRXは、昭和臭さや今っぽさのアンバランス具合が非常に良い感じですね。
誰かBLACK好きの人で、私と一緒に倉田てつをがオーナーやってるステーキハウスに行ってくれる人いないかな。いないか、さすがに。遠いし、高いもんね。気軽に行ける距離ではないだけに、いつも二の足を踏んでいる気がする。
よく、日本の中高生がする妄想の一つに「もし、学校がテロリストに占拠されたら?」というものがあります。要は自分の通う学校にテロリストがやってきて、それを自分が格好良く撃退するといった類のものなんですが、試しにGoogleで学校+テロリストで検索をかけると出るわ出るわ、その手の話が山のように現れる。それほど日本の、特に男子学生にとってはポピュラーな妄想なんですけど、実はこれって世界的に珍しいものではなかったりします。むしろ、テロリストという非日本的な題材な時点で、海外な方が活発なぐらいです。

1991年に公開されたアメリカ映画で、「トイ・ソルジャー」という作品があります。若き日のショーン・アスティンが主演の作品ですが、この映画を一言で言うと、アメリカ版学校+テロリストといった感じです。簡単に概要を説明すると、囚人である父親の釈放を目論むテロリストのリーダーが、金持ちの子息ばっかり通う全寮制の男子校を占拠し、それに対して校内でも札付きの悪ガキグループが抵抗を開始するという話。まんま、前述した日本の厨二病的妄想であり、違いがあるとすれば守るべきヒロイン、つまり女生徒がいないことと、全寮制という日本では珍しい空間が舞台ということでしょうか? 日本の男子学生が妄想で済ませるところを、映画にしてしまう辺り、さすがアメリカはスケールが違うと思いますが、学生時代に一度は夢見る妄想だけあって、内容の方もそれなりに楽しむことが出来ます。
ただ、日本の妄想と違う部分としては、決して悪ガキたちはテロリストと殺し合いをしません。特殊能力や武器知識があるわけでもなく、あくまで敵を出し抜き、欺いて、外に展開している軍を引きこもうとするだけです。これは後述しますけど、アメリカと日本における子供という存在に対する考え方の差なんでしょうね。日本の妄想なら主人公達がテロリストから銃器を奪い、敵を殲滅するぐらいの勢いなんですが、この映画での場合、そういう流れにはなりません。もっとも、悪ガキの一人が銃を奪うシーンはあって、暴走の挙句に殺されてしまうのですが、なんとこいつがマフィアのボスの一人息子なのです。
マフィアのボスは囚人であるテロリストリーダーの父親と顔見知りで、彼を通じて息子だけを助けだそうとするのですが、元々マフィアのボスである親を嫌っていた息子は自分だけを助かるのをよしとせず、怒りのあまり暴走して射殺されてしまいます。仲間であった悪ガキたちは抵抗を諦めてしまうほどに気落ちしますが、マフィアのボスである父親は黙っていません。刑務所に手を回し、報いを受けさせるとして囚人を殺してしまうのです。

友人を失った悲しみから立ち直り、仲間と共に反撃を開始する主人公ですが、前にも書いたとおりテロリストのリーダーを撃ち殺すとか、そういう直接的な手段はとらず、実際にリーダーを射殺したのは、悪ガキたちをいつも叱っていた校長……いや、教頭先生だったかな? たまたま学校の外へ用事があってテロに巻き込まれなかったという、日本の妄想なら主人公となりうるシチェーションですが、それを生徒ではなく教師が持っているのです。いつも小馬鹿にしていた教頭が、自分の命を助けたヒーローとなった。ここから分かるように、英雄とは大人がなるものであって、子供に与えられる称号ではないのです。アメリカは英雄願望が強いことで有名ですけど、それは決して子供に当てはまるものではありません。例えば、アメリカ人が日本に抱く疑問として、何故日本のゲームやアニメは少年少女が主人公であることが多いのか? というのがあります。アメコミなんか見るとわかりますけど、中学生とか小学生のスーパーマン的存在が活躍する話って、無効じゃか限り無く皆無に近いんだよね。それはアメリカ人にとって、戦いとは大人がする行為であって、世界を子供に背負わせるという発想がないから。大人には大人の果たすべき責任というものがあり、子供にもまたそれはあるけど、差し当たって世界の宿命や命運は含まれてないんだよね。だからこそ、日本の少年少女主人公は向こうで受けにくいのです。

たまにアニメとか、特にロボットアニメを見ていて思うことなんだけど、10代で人生のすべてを決めてしまっている奴があまりに多いと思うんだよ。15~18歳に間に起こった出来事が、人生で最大級の事件だったとしても、普通ならその後6,70年の人生が残ってるわけじゃない? 10代からそんな調子で、残りの人生どうやって生きて行くんだよとか、そういうくだらない心配をしないでもないんだよね。早く咲いた花ほど、枯れるのも早いっていうし。
公開初日の朝一で観てきたわけだけど、川崎のTOHOシネマズには違う映画を観るために一度行っているから、今回が2回目になりますね。朝の9時前から川崎へ行くなんて、チネチッタでとある舞台挨拶のチケットを買うために並んで以来だけど、そらおとに関しては敢えて舞台挨拶は狙わずに、一般上映を選びました。そういったイベントが嫌いな訳じゃないんですが、どちらかと言えば映画は集中して観たいですからね。初回ぐらいは、じっくりと鑑賞してみようじゃないかと思いまして。まあ、舞台挨拶自体は他でもやるみたいだし、後々から参加するでも問題はないでしょう。後、映画が始まる前に川崎の街で色々なことがあったんだけど、思い出すと不快なのでそれはカットの方向で。詳しくはTwitterの方で御覧ください。

そらおと初の劇場版ですが、話自体は原作に存在するものを使用しており、その内3分の1をアニメオリジナルとしてアレンジ、もとい再構成しているのが今作品になります。原作コミックスとしては丁度9巻から10巻の最初にあたる話で、主人公の智樹がいつの間にか所属扱いにされていた新大陸発見部に、風音日和という少女が入部希望してきたとろこからスタートします。新たに登場したヒロインが軸となって展開される、そらおとでは珍しい長編なんだけど、実はこの日和という少女、原作では結構唐突に登場します。アニメでは台詞ありの状態で1回、台詞無しの顔見せで数回登場しますけど、原作では最初の1回のみであり、正式な登場までは謎多き少女ということになっていた。
アニメというか映画はそんな日和を登場させるに当たって大幅なアレンジを加えており、なんとエンジェルビジョン方式と称した日和視点の総集編を序盤から30分位長したのです。そらおとの1期1話から、日和がそこにいてもおかしくない話だけを抜き出して、彼女がどれだけ智樹のことを観てきたか、というのを描いたわけですね。日和は智樹のことを恋愛対象として好きなんですが、原作だとその理由が特に語られなかったから、そういった不足分を補おうとしたのかも知れない。恋する乙女は如何にして智樹を好きになったのか、みたいなね。ただ、日和の新規映像があるとは言っても基本的には総集編ですから、1期と2期を観てきた人達にとってはなにか新鮮味があるわけでもないし、かといって映画から観るという新規の人向けなのかと言われれば、それに関しても首を傾げてしまう。
というのも、日和視線を挟むことが出来るのって基本的にギャグパートやギャグ回だけなんですよ。だから、イカロスやニンフたちエンジェロイドがどういう存在なのかとか、智樹はどんな経緯や経験の末に彼女たちと暮らしているのかといった、そういう説明は一切無いんだよね。ニンフやアストレアも、日和視点ですからいつの間にかそこにいた感じですし。だから私の個人的な感想としては、単純に制作期間足りなかっただけなんじゃないかと思う。だって、日和自身はある程度唐突に登場しても、話としては成立するもの。原作がそうなんだから。

原作と映画の大きな違いは、視点の複数化にあると思います。つまり原作においては、ほぼ智樹の視点で構成されているが故に、日和は最低限の情報だけでも成り立っているのですが、映画は序盤を日和視点にすることで、徹底的に鑑賞者へ彼女の情報を与え、感情移入をさせようとしているのですね。強引なキャラ立てもあったものだと思うけど、やり方としては別段間違ってもいないでしょう。
序盤の総集編が終わると、映画にも関わらず何故かアイキャッチが挿入され、ここだけ登場のトモ子が出てきます。5月のヤンフェスで藤田咲が、「映画でトモ子が何回きゃる~んといったか数えてみてください」と行ってましたけど、まさか1度だけとは……まあ、原作だと登場してませんからね。このアイキャッチが終わると、視点は本来の主人公である智樹へと戻り、彼の視点から新入部員である日和が描かれるわけです。
原作における日和編は終盤までシリアスにはならず、シリアスに突入した後もギャグパートがあるなど、基本的に楽しげな話が多いのですけど、映画はそれらがあまり再現されていませんでした。予告にあった車窓からとか、結構期待していたんですけどね。日和→智樹を描いている割には、それによって揺れているイカロス以外のエンジェロイドや、そはらのことを全然描いてないんです。あくまでヒロインは日和だけというか、日和編における大事な箇所だけを抜き出して再構成してる印象を受けます。
この点に関しては、総集編やるぐらいなら車窓からやメイドをやってくれよという気持ちが強いので、あまり良かったとは思いません。ましてや、日和入部後の短い話が終わったと思ったら、すぐに戦闘へ突入し、それもあっという間に終わるだけですからね。

序盤の総集編で智樹への想いを募られていた日和ですから、本編で告白するまでの間が短くても、鑑賞者的には唐突でも突然でもありません。けれど、日和はその設定上、告白後に一度退場するキャラですから、車窓やメイド等のイベントやらないと、本編がどうしたって短くなってしまうんですよ。制作側がそこら辺をどう考えていたのかは知らないけれど、私は本編よりも総集編のほうが長く感じた。
しかも、日和編における戦闘は主にニンフがメインとなっており、イカロスやアストレアはどちらかと言えば脇役です。ニンフは物語上のサブヒロインを務めることが非常に多く、この話にしても彼女が長年繋がれていた鎖を、本当の意味で断ち切ったという、かなり重要なものになります。にもかかわらず、日和の設定を変えるなどしてニンフの活躍機会を大幅に奪い、日和と対決するのはあくまでイカロスということにしてしまった。これは、アニメのヒロインがイカロスで構成されているからなのか、メインヒロインであるイカロスの活躍がないのは不味いという大人の事情や判断かは知らないけど、私は少し不服だったりする。そもそも日和の気象兵器設定を、訳の分からない時間干渉能力に変えた事自体、なんの意味があるのかと思ったりね。時計じかけの哀女神というサブタイは綺麗だけど、だからといってそれが本編に上手く絡んでいるわけでもないし、気象兵器が威力の割に地味だから変えられたのかとか、かっこいいサブタイをつけたかったという興業的理由なのかと邪推してしまう。

ニンフが活躍しない時点で最終的な日和の結末も原作とは大きく違いますし、含みを持たせたエンディングであるとはいえ、3期に続かずここで終わってもいいようなラストにはしてありますね。まあ、2期でカオス編を終わらせてしまった時点で、なにをどうすれば3期が作れるのかという疑問はありますけど、そこはあまアニメスタッフの努力次第でしょう。正直、映画というよりは質のいいOVAを見ている印象が強く、話の内容的にも原作を越えるものではなかったんだけど、まだ前売り券は使ってませんし、舞台挨拶等のイベントにも興味はあるから、後2~3回は行ってみるのもいいかなと思っています。
私の手元にもやってきましたよ、初音ミク特集のSFマガジン8月号が。なんか、先日の日記を書いてからというもの、山岸真や堺三保、それに野尻抱介といったSF界のお歴々や、変なところでは三崎尚人みたいな業界人が、私の目の前や周囲に現れては消えて行くというのを繰り返していたんだけど、それだけSFMのミク特集に反響があったのだと思っておきましょう。でなければ、こんな場末の日記なんて誰も見ませんからね。関係者からは謝られる反面、良い宣伝になったとも言われたし、私にしたところで平凡に生きていたら絡む機会もないような人たちと接することが出来たので、実はそれほど気にしていなかったりする。驚きはしたけどさ。

さて、今回のSFMは初音ミク特集なわけですが、その前に1本の読み切りが収録されています。SF作家、神林長平書き下ろしの「いま集合的無意識を、」です。これは初音ミクとかまったく関係ないもので、謂わば先月号で特集されたことの続きだったりします。先月号持っている人なら分かると思うけど、前回のあれはこの書き下ろしを読むことで初めて終了するんです。どうして今月の企画とは関係ない短編がミク特集の前に載っているのかといえば、この時点ではまだSFM7月号だから。
私は一種の演出のようなものだと捉えることにしたけど、これを読むことでSFM7月号は終わり、ミク特集である8月号へと移ることが出来るのです。正直、上手いやり方だと思った。というのも、神林長平の読み切りが載ることは知ってたものの、例のごとく内容までは詳しく知らなかったんですよ。SFファンで彼の名前を知らない人はいないと思うけど、知らない人のために解説すると、戦闘妖精雪風などで知られる第3世代SF作家になります。日本のフィリップ・K・ディックとも言われ、ハードもコメディも書くことの出来る大ベテラン。当然ながら、私の好きな作家の一人でもある。
書き下ろしの内容については、発売したばかりということもあって、どこまで書いていいのか悩むが……幻想的であると同時に、胡散臭いと私は思った。編集から感想を聞かれたときに、私は失礼にもそう言ってしまった。けれど、どうしたことだろうか。読めば読むほど、そうした最初の印象は薄れていき、圧倒的なSF強いテーマ性、そして作者が持つ作家としての技術力にのめり込んでしまうのだ。先月号を読んでいるか否か、もっと言えばとある一人のSF作家を知っているかどうかで感想や印象は大きく変わるのだろうが、題材の凄まじさも含めて是非多くの人に呼んでもらいたい作品だと思う。

私はSFMを読むときは、とある理由からリーダーズ・ストーリイを最初にと決めているのだが、その次に読んだのが神林長平の読切だった。メインはあくまでミク特集なのだから、読み飛ばすか後に回しても良かったものを、最初から順当にと思ったのだろう。カラーページをざっと観て、そして書き下ろし短編を読んで……全てがひっくり返ってしまった。神林長平はこの読切を自分への決着と、若者へのメッセージであると書いている。経験上、年配者から若者に向けて送られる言葉など、大半が説教の類であって、この話もそういった部分がないわけではない。しかし、それ以上に、とある一人のSF作家への想いが滲み出ており、私が当初感じていた胡散臭さは、奇妙な納得感へと変化していた。ネタとして有りか無しと言われれば、神林長平以外がこれをやったら袋叩きもいいところだと思うが、逆に言えば彼だからこそ許される、そんな作品であることは確かなのだ。
それ故に感じる、説得力とは違う一種の納得力。内容自体はとても物静かにも関わらず、読了後に胸を打つ力強さがあった。物書きとしては少々悔しい気もするのだけど、読者としてなら、私のような、私たちのような若い世代こそが読むべき作品なのだろう。
本当は読切に付いてはあまり書かないつもりだったんだけど、気づけばいつもの日記並に書いてますね。SFM元編集長である塩の人がTwitterで言ってましたけど、今回のSFMはとにかく豪華なんですよ。だから書くことがいっぱいあるんですが、後はミクについてのみ書こうと思います。ピーター・ワッツの読切も面白かったものの、誌面のすべてを取り上げていたらきりがないのでね。神林長平について書いたのは、読み飛ばしてもらいたくないと私が思ったからで、例え虐殺器官やハーモニーを知らなくても、一読して欲しいと感じたからです。

まあ、それはともかくとしてメインであるミク特集。表紙の画像は前回も載せましたけど、KEIの描き下ろしですね。KEI自体は早川書房でイラストの仕事をやっていたこともあり、あるいはその繋がりで今回のミク特集に発展したのではないかと私は思っているのですが、掲載される雑誌が雑誌ということもあってか、いつにもましてSFチックな雰囲気が漂ってますね。他のボーカロイド、クリプトン製ならリン・レンやルカも載せるべきか否かという意見はあったらしいけど、あの子らまで出てくると企画趣旨が若干ずれてしまうからね。特にリン・レンは、SFよりもファンタジー的な楽曲が多いから、表紙をミクだけにしたというのは正解だったと思います。
カラーページはまず、初音ミクの生みの親であるクリプトンの佐々木渉インタビューが載っています。定盤ということで基本的なこと、導入的な部分しか触れられてないのだけど、モノクロページから始まる続きは、かなり詳細で読み応えのある内容になっています。勿論、私は熱心な初音ミクファンというわけじゃないから、あるいはこの佐々木氏のインタビュー内容は、以前に他誌でも話したことがあるようなものなのかも知れないけれど、初音ミクを知る、製作者を知るという意味ではかなり分かりやすいものなっている気がする。やはり、音楽ソフトなだけあって、佐々木氏の中にある音楽観などの話題も触れられてるんだけど、これもミクを知る上では非常に興味深い内容だ。
印象に残ったやりとりとして、インタビュアーがこんな質問をしている。
――例えば、「シンギュラリティ」という言葉があります。簡単にいえば、機械が人間を超える特異点を指すんですが、ミクがいずれは「楽器・ツール」を超えて「歌手」として人間には表現できない領域に踏み込むという意識はおありですか?
佐々木 人間を超えるというより、そもそも人間と違うこと、人間になりきれなかった女の子であることが重要だと思ってるんです。肉体存在という唯一無二の実態がない分、劣化コピーではなく初音ミクそのものが個々のユーザーの手元にいて、ユーザーが動かしてあげて、何とか歌える……云々。
本当はもっと長いんですが、私はここに堪らないほどのSFを感じてしまった。初音ミクというのは楽曲制作や二次創作のしやすさを優先するため、本当に基本的な設定外はなにもなく、KEIがコミックラッシュでやっていた漫画も非公式であるとクリプトンが宣言したほどだったのですが、なんていうか上記のやりとりで初音ミクという歌姫本質を垣間見たような気がした。ミクファンにとっては常識的なことなのかも知れないけど、私にはなんか衝撃的で、掻き立てられものがあった気がする。

そろそろ初音ミク特集のメイン企画であると思われる、現役SF作家3人による短編について書きましょうか? インタビューと短編の他にはエッセイなんかもあるんだけど、私はどうにもエッセイの解説というのが苦手でね。少々堅苦しい内容のものも多かったから、気軽に感想というわけにはいかなそうで。だから、とりあえずは短編のほうを書くことにします。
以前の日記でも触れたとおり、今回の初音ミク特集には3人の作家による書き下ろし短編が収録されており、それぞれがVOCALOID、というよりもミクをテーマにしている。発売したばかりなので、詳しいネタバレはさけるが、三者三様とでも言うのか、どれも作家自身の持ち味が強く出ており、なかなかに読み応えがあった。
まず、山本弘の「喪われた惑星の遺産」であるが、これは一言で言えばおバカSFという奴だ。いや、文章自体は至ってまともだし、書いている本人はさぞ真剣に書いたのだろうが、山本弘という人は実に馬鹿馬鹿しい内容を説得力のある真面目くさった文章で、さも壮大な話のように書き上げるプロなのである。彼の持論に「SFの本質はバカである」というのがあるが、金星探査機あかつきを発見した2800万年後の異星人が、異星人的見地からあかつき内に搭載された初音ミクのキャラクターに迫り、研究していくという内容は非常に読み応えがある。海外SFによくある話として、現代にやってきたタイムトラベラーが過去の文化に対する世間知らずを披露し、分からないものだらけの世界で右往左往とするというのがあり、日本で言えば現在人が江戸や戦国などの過去へ行く、などがあるだろうか? 逆に現代人が未来に行ってしまったり、それこそ江戸時代人が現代に来てしまったりと、タイムトラベルものとしては本当にメジャーなものであり、「喪われた惑星の遺産」という作品はそれに近いものがあるのだ。数千万年後の宇宙人は、遠い過去に存在した惑星人たちの文化を紐解くことに真剣であり、その真剣さが初音ミクという存在をよく知る我々には、思わず笑ってしまうような、馬鹿馬鹿しい光景に思えるのだろう。山本弘は自身のブログで、初音ミクは数百年後も残るキャラクターであると、以前この日記でも紹介した、富野由悠季や冲方丁の意見とは真逆の考えを披露していた。しかし、今回の短編は数百年どころか数千万年であり、彼の初音ミクに対する考えや、文化というものに対する想いなどが全体的なテーマとして滲み出ているのだ。そういった意味では、この短編こそ一番初音ミクという存在を全面に出していたのではないかと、私はそう思う。

泉和良の「DIVA の揺らすカーテン」は、視点という意味でなら、前述の短編以上に初音ミクを前に押し出している作品だ。しかし、私はこれが作りの甘い作品のように思えてならない。泉和良は2007年のデビューであり、年齢も35歳と比較的若目だ。彼はハヤカワで一度書いたことはあるものの、基本は講談社BOXと星海社を中心に執筆している男であり、どうにも文章や作風が雰囲気重視になっているように思えるのだ。最近の若い作家にはありがちな傾向で、まあ、流行りでもあるのだろうけど、淡々とした主人公による切々とした話の展開というのは、どうにも私の心に響きにくい。単純な趣味や好みの問題なのかも知れないが、物静かという意味では先の神林長平の読切だってそうであるのに、こちらにはあちらと違い心の奥底にある熱情のようなものがなく、どうにも淡白なのだ。
SF的な話をすると、この作品もジャンルとしては非常にシンプルでありがちだ。前述の「喪われた惑星の遺産」もそうなのだが、この2つに共通することとして、SFとしては非常に分かりやすいネタを、ミクを使って如何に表現しているか、というのがある。ジャンルやネタとしての新鮮味はないのだが、完成されているがゆえに型くずれすることがなく、どちらもまずまずな内容へと仕上がっているのである。「DIVA の揺らすカーテン」自体は、青春というよりは恋愛に傾倒した面が見て取れるが、作品の落とし所としては、まあ、こんなものだろう。長編小説の一部分を切り抜いたかのような印象をうけるのは、おそらく作者が短編を書き慣れていないせいもあるのだろうが、それ故に長編で読んでみたいと思わせる内容であったことは確かだ。まあ、現実的に考えれば難しい話なのかも知れないが、早川書房には是非とも検討していただきたいものである。

野尻抱介の「歌う潜水艦とピアピア動画」は、この短編の中で唯一のシリーズ物であり、前前作の「南極点のピアピア動画」は星雲賞の短編部門を受賞している。初音ミク、というよりはニコニコ動画をモデルにしたパロディ小説であり、先の2作品と決定的に違うのは、初音ミクそのものは登場しないことだろう。出てくるのは、小隅レイというミクをモデルにしたオリジナルのVOCALOIDであり、そういった意味ではミクや動画サイトをネタにはしているが、ミクそのものをテーマとはしてないとも言える。私はこれを機会に、本格的に初音ミクを絡ませるぐらいのことをやってのけるんじゃないかと思ったのだけれど、やはりシリーズ物ということもあってか、内容的には前作、前前作の設定を継承するしかなかったようだ。
ちなみにこの「歌う潜水艦とピアピア動画」は、初音ミク特集どころか今月号のトリを務める作品なのだけど、私にはなんとも感想が書きづらい。別にパロディ小説が嫌いな訳ではないのだが、ネタバレや元ネタ解説をしない方向で話を進めようとすると、あまりに書くことが少なく、魅力も伝えにくい。サブカルというよりは、最近のオタク向け小説と言い切ってしまったほうが適当とも言える内容は、初音ミク目当てに初めてSFMを買った若い読者にも、十分受け入れて貰うことが出来るだろう。
ところで、この野尻抱介であるが、先日ネット上で私の前に突然と姿を表した。実は今月号のSFMは、発売前から増刷と重版が決定し、Amazonがとある条件を出したことから早川書房が踏み切ったとかいう話で、そんな経緯もあってかAmazon上での売上が物凄いことになってたんですよ。趣味雑誌ランキングで1位になったかで、そうなると全てにおいて1位を取りたがるのが、昨今のオタクというかなんというかで、雑誌の総合ランキンの1位を取るみたいな運動が展開されて言ったわけです。まあ、ありがちな話ですよね。
ありがちな話だったけど、書籍という意味では珍しいこともあってか、私は最近の若いオタクはそういうの好きだねぇと、過去のハルヒやハピマテなどを思い出しながらTwitterで呟いてました。すると、突然そこに野尻抱介がやってきて、「運動の旗振りをしているのは自分だが、自分は50歳と若くもないし、ハピマテなんてものも知らないが」と非公式RTをしてきたのです。正直、50歳にもなってなにをしているんだと思わないでもなかったけど、野尻抱介の感覚としては、かつて吾妻ひでおが提唱した「SFを読むのではない、SFするのだ!」という教えを実践してのことらしい。
そう言われてみればなるほど、と思わないでもないけれど、野尻抱介本人がそういう考えのもとに動いていたとしても、それに乗っかっている若年層のオタクたちは、もっと単純に事を考えていると私は思うのだ。これもTwitterで呟いたことであるが、購入や購買によって本やCDの順位を上げることって、今のオタクにとってはある種の「祭り」なんですよね。参加条件は買うだけと簡単だし、貢献した気分も得られやすい。なにより実際に1位や1番をとったときの喜びや嬉しさが、共有しやすいんですよ。大抵がネットで行われていることだから。ブルーレイやDVDの売上を注視して、その結果で作品の価値を決めるという風潮も、今は普通にあるからね。
もっとも、私自身はそういう「祭り」を否定しているわけじゃなくて、それが好みの作品であれば乗っかることもしばしばありますから、今回のSFMに関しては良いんじゃないかと思っています。なにせSFMの増刷や重版自体、創刊史上はじめてのことですし、SFファンとしては嬉しいじゃないですか。これが最初で最後かもしれないけど、少なくとも悪い気なんてするわけがないです。

最後は話が少しずれましたけど、初心者からコアなファンまで、幅広く楽しむことの出来る初音ミク特集だったのではないでしょうか? 初心者の場合、小説誌にありがちな堅苦しさに戸惑いを覚えることもあるでしょうが、めげずにじっくりと読んでいけば、割とすんなり読めるようになるものです。山本弘はブログで、数年も前に星雲賞を取ったのだから、今回の特集は遅すぎるほどではないかと言っていたのだけど、私はそれに半分だけ同意し、もう半分で否定したいと思う。確かにミクが星雲賞の自由部門を、3年か4年前にとったのは事実だ。でも、数年前と今では事情が違うし、当時に出来なかったことが、今なら出来るということもあるだろう。
SFMの編集が、「今がベストタイミングであると信じているからこそ出来た」といった感じのことを言っていたけど、私はその通りだと思った。所謂オタク雑誌や一般誌が初音ミクを取り上げ尽くした今だからこそ、SF専門誌であるSFマガジンが初音ミクという電子の歌姫を特集することに、意味が出てくるのだ。
初音ミクはもはや一つの文化となった。そして我々は、その文化を見つめ直す、あるいは紐解くために、SFという新たな観点を必要としていたのだろう。忘れてならないのは、流行は廃れるが、文化というものは進化する可能性に満ちているということだ。かつて、富野由悠季や冲方丁が初音ミクを論じたときよりも、彼女は着実に成長し、進化している。SFMは私にそういったことを確認する機会を与えてくれたようなもので、期待以上の答えを私は得ることが出来た。だから今、私はとても満足している。
うっかり買ってしまいました。いや、俺つばのアニメ自体は今期2番目ぐらいに好きな作品だったんだけど、まさかBD買うほどまでになるとは思わなかった。最終回は少し納得いかなかったものの、これを注文したのは放送中だったし、多分続巻も買うんじゃないかと思います。ハッキリ言って原作は好きでもなんでもないんだけど、アニメとしては可も不可もないというか、無難にまとまっていたとし。私は奇抜さや大味よりも、無難なアニメを望むのかも知れませんね。エロゲ原作に限って言えば、ですけど。なんか、西又絵ってアニメになると私好みになるから不思議なんですよね。過去のらぶドル然り。

BDは無修正版ということで、TV放送時に掛かっていた修正が解除されているのだけど、乳首はともかく俺つばはパンチラや胸もみなどにも修正を加えるなど、昨今のアニメとしては結構厳しめだったりします。AT-Xでさえ、それは同じでしたし。まあ、他のアニメがおっ開き過ぎなんじゃないかという気もしますが、どちらにせよ私はこの手の無修正商法というのがあまり好きじゃないし、俺つばに関しては修正云々よりも、単純に話が見返したかったから買ったんだと思う。全部録画してるけど、BDにはキャラコメンタリーとかも付くしさ。
昔はオーディオコメンタリーといえば、スタッフないしキャストによる作品解説というのが主だったものだったけど、キャラコメをやるようになったのはいつからなんでしょうね? ぶっちゃけ、声優的には一番きつい仕事らしいけど、まあ、無理もないと思う。台本あるとはいえ、キャラ声とテンションを維持したままでトークしないといけないんだから。
第1巻のキャラコメ鳳兄妹でしたけど、なんだかんだ言って仲の良い兄妹ですね。もっとも、妹は兄ほど相手に対する関心は持ってないみたいだけど、そこら辺は色々複雑ということで。どちらかと言えば、ギャグのようで淡白なやりとりになってましたが、キャラコメなんて中身があってないようなものだからなぁ。私はメインヒロインの中では鳳鳴が一番好きなんだけど、というか隼人周りの話が最も面白いと感じたんでしょうね。ユイとか脇役もいいと思うし、アリスはいつになったら攻略できるんだってぐらいだし。ねぇ、ユイでさえ今度出る奴で攻略可能になるというのに、アリスファンはどうすればいいんだ。

スタッフコメンタリーは聞いてないけど、まあ、機会があったらということで。
最近、自身事故が多いよねぇ。朝も夜もどこかしらでなにかあるって感じで、この前なんて帰宅ラッシュ時に横須賀線、東海道線、京浜東北線、そして湘南新宿ラインが止まったもんだから、まったく酷いもんでしたよ。私は仕事で東京方面まで通ってるんだけど、全部止まるとJRでは横浜に帰りようがないんだよね。方法としては渋谷まで行って東横線に乗るか、あるいは品川に行って京急線に乗り換えることなんだけど、前者は渋谷まで行くのが大変だし、後者だは混雑を超えた大混雑になるのが眼に見えてますからね。まあ、それでも職場に戻るよりはマシかと思って、とりあえずは品川まで行くことにしました。

唯一動いていた山手線で品川まで移動したんだけど、駅のホームからして大混雑で、階段まで行くのに10分はかかったかも知れない。私はまだ良かった方で、中には30分掛けてホームから離脱したという人もいるぐらいだったから、相当なものだったんでしょうね。震災の翌朝を思い出さないでもなかったけど、瞬間的な意味ではこっちの方が上だったかも知れない。コミケ会場だって、ここまでの圧迫率はないですよ。
京急線への乗り換えは案の定凄まじいことになっていたようで、早期の帰宅を諦めたサラリーマンたちで駅前の飲み屋は賑わっていたといいます。私は酒を飲まない人なので、品川の駅ナカであるエキュート内で時間を潰すことに。といっても、飲食物に金を使う気にもなれなかったので、ホームから上がってすぐにあったBOOK EXPRESSへ入ることに。JRの駅構内にある本屋ですけど、横浜や渋谷なんかにもありますね。横浜店はそれほどでもないけど、品川店は結構な規模であり、新刊も充実していました。本屋としてのBOOK EXPRESSの特徴はまさにこの部分にあり、既刊ではなく新刊を中心に多く取り扱っているということです。人気のコミックスなどはある程度の冊数もおいてありますが、基本は最新と直近のみで、偶然通りかかって「お、この新刊出てたんだ」という感じに買っていく人を対象としているんですね。
私は運の悪いことに手持ちの本を職場に忘れてきており、文庫本の1冊でも買って時間を潰そうと考えていました。しかし、ふとコミックスの棚に行くと、そらおとことそらのおとしものの新刊が出ていることを発見。いつの間に、と思ったけど、月始めに出ていたらしい。

そらおとはエースで連載している作品の中でも、1話ごとの内容量というのが物凄くあって、それこそ4話分もあれば単行本1冊は楽に作れてしまうほどだったりします。そのため、コミックスの刊行ペースがとても素早く、月刊誌にも関わらず年間3~4冊は当たり前という驚異の速度です。だって、第1巻の刊行年って2007年ですよ? 月刊誌連載の漫画が、たった4年で12巻も出してるんだから、凄い話だ。
漫画は文庫本に比べると、あっさり読めてしまうものだけど、丁度東海道線の運転が再開されたこともあって、ガタコトと満員電車に揺られながら読んで帰ることに。正直、そらおとは電車内で読むような漫画でないのだけど、まあ、私はそういうのあまり気にしないから。ブックカバーは掛けてあったし。
さて、12巻は前巻からの続きということで、カオス復活篇の途中ですね。智樹と触れ合い、愛というものの暖かみを知ったカオスだったけど、帰ろうとしたおうちであるはずのシナプスから砲撃され、マスターから拒絶されるという悲惨な目に合います。シナプス最強の防空システムと称するZEUSですけど、なんか銀英伝のトールハンマーを思い起こしますね。球体状の物体から放たれる砲火ということで、あまりの威力にカオスは再生したばかりの羽を撃ち抜かれます。続けてハーピーたちが猛攻を加えるわけですが、こいつらって自分より小さいものにしか強がれないよね。アニメの印象が強いのでイマイチ可愛げがないんだけど、自身のマスターに対する想いはそれなりにあるようで。多分というか、ハーピー自身はダイダロスじゃなくて、このマスターの自作なんだと思う。失敗ばかりしているのに廃棄しないのは、そういう事情もあるんだろう。カオスだって同じなはずだけど、使っている技術はダイダロスのものだし、元々命令を訊くような性格をしていなかったので、あまり思い入れが無いのかも知れない。まあ、直接的な原因はセイレーンを食ったことだろうけどね。カオスよりも、セイレーンの方が好きだったんでしょう。カオスに食われている最中、マスターに助けを求めていましたし、ハーピー同様の関係性が合ったのだと思うし。
マスターに拒絶されたカオスは、智樹の元へと向かうのですが、タイミングの悪いことに智樹はエンジェロイドたちに腹を立てており、カオスはその怒りの言語を耳にしてしまいます。智樹はカオスが来ていることなど知りませんし、そもそも彼女がエンジェロイドであることすら知りませんからね。そして、イカロスたちは智樹とカオスが出会っていたことを知らなかった。巡り合わせの悪さが誤解を生み、カオスは暴走して再び海の中へと引きこもってしまいます。彼女の涙に突き動かされたアストレアが追おうとしますが、イカロスと違って耐水圧装甲を積んでいないので、断念するしかなかった。

カオスの成長フラグが立った12巻ですが、他の見所としては智樹の母親が現れたことですかね? まあ、まんま大きいトモ子だけど、親子揃っていい性格をしてました。桜井家って母親の家系だったんですね。父親は地味な感じでしたが、そはらと同じく抑え役らしい。「羽なんか……気にすんな!!」という豪快さは、智樹以上でした。ギャグキャラだったので、再登場やシリアスパートに絡んでくるかは不明だけど、息子が未確認生物と暮らしていても問題とは思わないらしい。少なくとも一晩は両親は家に泊まっていたはずなんですがね。
多分、この刊行ペースであれば秋頃には13巻が出ても不思議はないのだけど、その頃には映画のBDとかも出ているんだろうか。そういや、時系列的には映画の公開がもうすぐだな。
シャリテクロワールが夏コミで発行を予定している同人誌、ヨスガノソラ「春日野兄妹」アンソロジーの参加者が正式に決定しました。企画を始めた際は、果たして参加者が集まるのだろうかと、色々心配や不安にかられていた私ですけど、おかげさまで沢山の方々に賛同していただき、なんとかアンソロを制作できる運びとなりました。本当にもう感謝してもし足りないというか、原作ヨスガと春日野兄妹を愛してくれている人がまだまだ多くて、その意味でも感動していたりします。

「春日野兄妹アンソロ」執筆者ページ
URL:http://www.usamimi.info/~mlwhlw/author.html

以前の日記にも書いたとおり、何人かの方には私が直接メール等で参加をお願いしました。ヨスガノソラを通じて出会った人たちと一緒に、記念になるような本を作りたいというのは私の夢でしたが、今回はそれに応えてもらった形ですね。ヨスガで広がる同人の輪ということで、昨年からこっち活動してきた甲斐が合ったというものです。どの方も原作のヨスガをよく知っている、ハル穹を愛してくれている人たちなので、私は今からどんな原稿が来るのか楽しみでなりません。
そんなわけで大半の執筆者さんは知り合いだったりするんですけど、初めましての方も何人いかいます。告知ページを見て参加を申し込んでくれた方々なんですが、ここだけの話、直接お願いした方以外は参加者集まらないだろうと思っていたので、かなり嬉しかったりする。中には未成年の方もメールくれたりしたんですが、本の内容が一部成年向けとなってしまったため、残念ながらお断りすることに。まあ、そこのところは仕方ないよね。エロゲのアンソロだし。
私含めて執筆者は10人、その内漫画が5にイラストが4、カラーが2つで小説が2つだから……規模としてはそこそこでしょうか? まあ、それでも総ページ数が100を超えることないと思うので、形としてはミニアンソロだろうけど、こればっかりは各人の進行状況にもよりますからね。装丁等の正確なアンソロ詳細を出せるのは、多分締め切り過ぎてからじゃないかなと。

ヨスガノソラは同人ジャンルとしてそれほど盛況というわけではなく、アニメの放送が終了した直後の冬コミはともかくとしても、春のイベントは随分本も少なかったと思います。私はかつて、ヨスガの同人は持って春までだろうみたいなことを書いたけど、それは当たらずとも遠からず、という感じだった。COMIC1では私含めて何冊かの新刊を見かけることもあったけど、片手ほどあるかどうかといったところだったし、先日のサンクリはサッパリでした。まあ、コミケともなればまた違うのかも知れないけど、私が今回のアンソロ企画を夏コミ合わせにした理由には、そういった部分も考えてのことだったりするんですよね。夏コミの当落が確定してから募集を掛けるというのは、スペースは確保されているという安心感がある反面、制作日数は限られてしまいますからね。参加してくれる方の中にも、てっきり冬コミでやるのかと思っていた、と言ってた人もいましたし、時間的問題から参加を断ってきた人もいます。
けど、だからと言って冬コミまで企画を先延ばしにしようとは思わなかった。それは以前の日記にも書いたとおり、Sphereの新作であるイモウトノカタチが出る前に、ヨスガノソラで本を出したかったというのもありますけど、より同人的な話をすると、上記のようなジャンルとしての賞味期限みたいのもありましてね。勿論、私一人で出す本なら、ジャンルが流行っていようが流行っていまいが関係ないのですが、折角沢山の方に参加していただくアンソロなんだから、大勢の人に読んでもらいたいじゃないですか? であれば、冬に出すよりは夏に出したほうが、まだしも効果あるかなと。趣味同人とはいえ、こういう企画は人に読まれてこそだと思いますし。

そんなわけでアンソロは実制作作業へと移行したので、しばらくは日記でも取り上げる機会が少なくなるかも知れません。告知サイトも更新はしたいと思ってるんですが、常時更新出来るコンテンツがあるわけでもないので、なにかないかと現在考え中です。まあ、無理して用意する必要もないかと思うんですけど、それじゃあ寂しいですからね。この日記やTwitterにリンク繋げるという手もあるけど、常にアンソロ関係のことを書いてあるわけでもないから……うーん、週替わりで私の既刊から再録でもしてみようか? DL頒布でいいからして欲しいとイベントごとに言われてるんだけど、なかなかそういう機会に恵まれないもんで。いや、でもそうすると告知サイトの趣旨からずれるな。ちょっと色々考えてみます。
兎にも角にも、参加者も無事集まって制作がスタートした「春日野兄妹」アンソロを、皆様よろしくお願いいたします!
サンクリに行ってきたんですけど、会場30分前に行っても余裕なぐらい落ち着いてましたね。特に用があったわけじゃなくて、贔屓にしているサークルが一つだけ出るというので顔見せ程度の参加だったんだけど、参加者的には「サンクリにしては賑わっている」という感覚だったらしい。私も一瞬は同意したんだけど、よくよく考えればそんなわけあるはずもない。単にホールの規模が小さくなったから、そんな錯覚を覚えるだけですよ。A23ホールを半分しか使わないようなサンクリの参加者が多いわけないじゃないか。

カタログで50回記念が記念開催っぽくなかったと自虐するほどに今のサンクリは落ち込んでいるわけだけど、まあ、事件の尾を引くというよりは静かな衰退を迎えていると表現したほうが、今は正しいのかも知れないね。例大祭は勿論として、まどかやらシュタゲやらのオンリーイベントが盛況な中で、あの手の中規模オールジャンルはあまり需要がないのかも知れない。そもそも、人気ジャンルってものが今の同人界には存在しないからね。カタログ見て驚いたんだけど、遂になのはサークルでさえ消えかかってるんだから。俺妹もここまで残っているふうには見えなかったし、ISもいつまで持つか……まどかは今のところネタ関係の本しか話題にならないから、一過性という気もする。
私は今だにCレヴォの代わりでサンクリに参加しているという気分が抜けきらないから、サンクリに対する思い入れはあまりありません。それでもここまで過疎っていると、果たして年は越せるのかとか、そういう心配はしたくなってしまう。記憶の中で一番サンクリが盛況だったのは、4ホール開催で東方が特に勢いづいていた時だったと思うけど、今じゃ2ホール半にまで規模が落ち込んでいるわけだから、かつての栄華もいいところですね。まあ、数年前が異常だったのであって、今ぐらいがちょうどいいんだと言われれば、そんな気がしないでもないし。
大手というほどの大手は来てなかったけど、無限軌道Aがいたのは珍しかったかもね。あの花の折本をせっせと売ってたけど、そういえば私が贔屓にしているサークルの新刊もあの花だった。同人ジャンルとしては結構人気なんでしょうかね。大流行ってほどではないだろうが、夏コミでは一番本が多いかも知れない。春アニメは、あまり同人向けじゃないのが多いだけに。

贔屓サークル以外は本当に用がなかったので、終わったらさっさと帰りました。横浜でメロンブックスに寄って、クリアファイルでも引換ようかと思ったんだけど、特に買いたいものもなかったから断念。まあ、絵描きもそんなに好きじゃなかったし、なによりれもんと黒もんじゃね。やっぱり、めろんちゃんに限るよ。
帰宅したら昼飯を食べて、ニコ動で生放送されるそらおとの特番を観ることに。本当はバスツアーもイベントも参加したかったんだけど、日曜日の夜22時近くまで新宿にいるというのは、社会人的に次の日きつくなるじゃないですか。新宿からなら電車2本で帰れるけど、確実にてっぺんは超えるだろうし。バスツアーと同時開催って都合もあったんだろうけど、もうちょっと早い時間にして欲しかったというのが本音だったりする。そらおとは作品としては大好きだけど、イベントそれ自体にはあまり執着がないのか、舞台挨拶のチケットも取らなかったしね。まあ、舞台挨拶がそれほど好きじゃないってのもあるんだろうけど。後だろうと先だろうと、映画そのものに集中できなくなるし。
生放送自体は相応に楽しいものだったけど、1時間半と聞いていたのに最後の30分はそらおとfの最終回を流す、謂わば再放送みたいなものだったから、実質1時間程度しかなかったと思う。まあ、そんなものなんだろうが、ちょっと損した気分にならないでもなかった。特に満員で追い出されるようなこともなく、画質もそれなりだったから、たまにはこういうのもありかも知れないね。どうにもニコ動での生放送って好きになれないというか、あんまり得意じゃないんだけど、好きな作品関連だったから、あまり抵抗感みたいのがなかったのかな。

15時から1時間半だから、16時半には放送が終わっていて、その後はアンソロ作業をやったりしつつも、基本的にはのんびりとした休日を過ごしていた気がする。同人誌即売会に行ってきたとは思えないぐらいで、疲れみたいのはなかったかな。ああ、そうそう、アンソロに付いてはメンバーが確定したので明日の日記で書くことにします。色々ありましたけど、予想以上のメンツが集まったということもあって、今から夏コミが楽しみですね。その前に自分の原稿を書けって? うん、その通りだ。ネタは既にあるんだけど、折角のアンソロにそれでいいのかとか、私なりに悩んでいてね。いやはやなんともはや、どうしたものかしら。
私はなんでか早川書房の編集部と縁が深く、いつだったかの日記でミステリマガジンを取り上げたことがあります。でも、私自身はどちらかというとSF畑の人なので、どちらかというとSFマガジンの方が好きだったりします。決してSFマガジン編集部に混ざりたいとは思わないけど、雑誌としてはやっぱりね、好みというものがありますから。
そんなSFマガジンですけど、この前担当編集の人が妙なことを話しているのを小耳に挟みました。なんでも、6月25日に発売される8月号では、あの初音ミク特集だというのです。これはもう、話を聞くしかないと思い、詳細を聞き出すことにしました。

初音ミクというVOCALOIDのことを知らない人は、今やこの業界でいないと思いますが、簡単に説明すると音声合成及びデスクトップミュージックを作成するために作られたソフトウェアで、VOCALOIDという呼称自体はYAMAHAの音声合成システムの総称だったりするんですよね。だから、初音ミクを出しているクリプトン・フューチャー・メディア=VOCALOIDというのは、ちょっと間違っていたりする。
まあ、そんな説明を今更する必要はないよね。よく分からないって人は、それこそウィキペディアでも見てくださいって感じなんですけど、とにかく初音ミクってのはそうした音声合成ソフトに流行りの萌えキャラをイメージイラストとして付加したもので、これが世のオタクたちへ馬鹿みたいに受けたんですよ。それこそ、ちょっとした社会現象並に。今でこそ漫画作品とか各種メディアミックスがされてますけど、パッケージ絵しかない状態で同人誌が山のように出たり、ろくに設定もないのにそれはもう凄いブームでね。
だから、音楽ソフトというよりはオタク向けのツールとしての意味合いが強くて、私の勝手な考えだと、なにかの作品に属さないキャラクターとしてここまでヒットしたのは、最初期のデ・ジ・キャラット以来だと思う。あれも始めは店舗のマスコットキャラであって、アニメやゲームは後からメディア展開したものだからね。もう十年以上前の話だけど、そういった意味では、初音ミクはかつてのでじこと同じ道を歩んでいるんじゃないかなと。

音楽ソフトの範疇を飛び越え、一大ムーブメントとしてオタク界を席巻している初音ミクだけど、それがどうして早川書房のSFマガジンで特集されるのか? それを疑問に思った人は、少なからずいるのではないでしょうか。確かに見た目はSFチックではあるけど、音楽合成ソフトは現代の技術であって、SFでもなんでもありません。
けど、実はこの初音ミクって何年か前に星雲賞を受賞しているんですよ。星雲賞というのは毎年開催れている日本SF大会で授賞式が行われる、所謂SF限定の文学賞なんですが、ミクはこれの自由部門で受賞経験がありましてね。最近話題になった探査機のはやぶさとかと一緒に名を連ねているのです。故に、SF界でも前々から注目されており、今回のSFマガジンでの特集は、どちらかといえば やっときたかとか、なんだ、まだやっていなかったのかという感じだったりします。もっとも、これまでも小規模な記事ぐらいはあったかも知れないけど、紙面を上げての総力特集は初めてでしょう。
初音ミクの特集を行う雑誌というのは、当たり前の話ですがこれまでにいくつもありました。それはなにもアニメ誌などのオタク向け雑誌に限らず、例えば一般向けの週刊誌とか、経済誌なんかでも取り上げられたことがありますね。しかし、それはどれも音楽合成ソフトとして、あるいは萌えキャラとしてのミクを特集ないし研究するだけで、内容としては結構似通ったものであることが多い。要はマンネリ化してしまったんですよ。上にも書きましたけど、色々コラボやメディア展開しているとはいえ、元々が音楽ソフト兼萌えキャラだから、これ以上話が広げにくいんですね。一つの視点から観た初音ミクというのは、ミク本人の広がりに比べると頭打ちになってしまったんだと思う。
アニメ雑誌に載ろうが、ゲーム雑誌で取り上げられようが「ふーん、そうなんだ」で済んでしまうし、例え新聞に記事が掲載されたとしても、さしたる新鮮味は感じられないでしょう。もはやその程度では驚きも感じられないほどに、初音ミクというキャラクターは成長してしまったんです。

そんな中で、SFマガジンはその紙面の特性であるSFという観点から、歌姫初音ミクの本質と、そのSF的想像力に迫りたいと考えているようです。これはちょっと、今までにない、新しい視点発想だと思いませんか?
紙面の方も、とてもSFマガジンらしい感じに仕上がっていて、まず眼を引くのは3人の作家による初音ミクの短編小説が載ることでしょう。これまでに漫画化したことは何度もあるミクですが、小説化されるということはあまり例がなく、しかも書き下ろすのはSF界を代表し、尚且つ初音ミクにも精通している作家たちです。
野尻抱介はニコニコ動画で活動することも多く、ミクファンには尻Pとして知られている人ですが、この人はパンツを空に飛ばすことに熱中している変なおっさんというわけではなく、なんと先程の星雲賞を6回も受賞したことがある凄い作家だったりします。短編作品の名手であり、今回は初めて本業でミクを表現するわけですね。
山本弘はハードSFを得意とする作家だけど、ライトノベル作家として90年代に活躍したこともあり、そっちで知っている人も多いんじゃないでしょうか? ソード・ワールドシリーズとか。この人はサブカル事情にとても詳しく、初音ミクも自身のブログで何度か取り上げたことがあります。この人のパラノイアSFと言われる独自の作風で、どんなミクが書かれるのかは、私もちょっと楽しみだったりします。
最後の一人である泉和良は、説明の必要ありますかね? 作家であり同人音楽家であり、野尻抱介以上にニコニコへどっぷりと浸かっている人ですね。作家としては最近デビューした人ですが、初音ミクの仲間である鏡音リンでの楽曲制作に定評があり、ジェバンニPとしても名声を得ています。そんな彼が満を持してVOCALOIDをテーマにした短編を書くわけですから、期待度も高まるというものでしょう。

インタビュー面でも充実しています。初音ミクの開発者であるクリプトンの佐々木渉氏が、わざわざ早川書房を訪れていたという噂も耳にしましたし、ヒャダインの名前で現在ブームを起こしているミュージシャンの前山田健一氏など、初音ミクに縁の深い人達がそろっています。他にもエッセイやイラストギャラリーなど、かつてSFマガジンが作品ではない、単なる一人のキャラクターを、ここまで徹底的に特集したことなど合ったでしょうか? ミステリマガジンがこの前出したコナンだって、名探偵コナンという作品の特集ですからね。作品ではなく、ただのキャラクターでしかない。それは初音ミクの強みであり欠点でもあったけど、今回のSFマガジンはそこを最大限に利用して、SFという分野から電子の歌姫に歩み寄ろうとしているわけです。SFマガジンがやらずに誰がやるんだ、という感じもしますけど。
既に早川書房の通販サイト、ハヤカワオンラインで予約が始まっているし、紙面の目次も見られるので、興味のある人は覗いて、ついでに買ってみるといいでしょう。
URL:http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/721108.html

少し話はずれるけど、私が初音ミクの特集で印象に残っているのは昨年のニュータイプ誌上で行われた、富野由悠季と冲方丁の対談です。特集というよりは、二人の対談の中で初音ミクの話題が出てきたという感じなんですが、その中で富野由悠季は「初音ミクは100年残るキャラクターではない」と断言しています。これはミクのことを100年後も残るキャラクターであると断言した人たちを否定するために言ったことですが、冲方丁はそれに同意し、同調しています。理由は飽きるから。
それだけ書くとなんだそりゃって感じだけど、初音ミクが100年後も残っていると主張する人たちは、初音ミクが「皆で作っているからこそ生き残れる」のだそうだけど、富野さんは「みんなでよってたかっているからこそ飽きるんだ」と。世界的なキャラクターであるミッキーマウスと比較して、時代を超えて生き残るようなキャラクターは、総意ではなく独占で作られるのだという意見です。皆でやっているから育つのではなく、皆でやっているから潰し合いが始まる。ミッキーとミクでは、ミクのほうがリアルかも知れないけど、リアルを追求すればするほど、キャラクターとしてのリアリズムは失われてしまう……冲方丁はキャラクターのリアリズムは現実感ではなく実在感だと言っていますし、富野由悠季はミッキーの手触りより、ミクの精巧さをリアルだと思うのは勘違いであると言い、私はそれに酷く感銘を受けました。
でも、それが初音ミクという存在でもあるんですよね。最低限の設定しかないから多くの人が参加することが出来る、ミクはそういうキャラクターなんです。私はミクにあまり想い入れがある方ではありませんが、一社独占で育ててきたデ・ジ・キャラットが今もいるのかといれば、すっかり過去の存在になってしまったし、キャラクターの行く末がどうなるかなんて、誰にも分かりませんからね。ただ、私の考えが富野由悠季のそれに少し近かったというだけで。

富野由悠季と冲方丁の対談は、冲方丁のムックであるNewtype Libraryという本に収録されています。初音ミクに付いて触れられているの僅かだけど、SF人といって差支えのない二人の初音ミク観に対して、SFマガジンはどのような答えや結論を出してくるのかというのが、実のところ私は一番楽しみだったりする。だから、実際に雑誌が発売された後に、またこの話は書こうかと思います。では、また発売日の時にでも。
先日、神のみを観ていたら、今度の攻略対象が年上の教育実習生だったのでチャンネルを回しました。なんか、劣化南央美みたいなボイスだと思ったんですけど、豊崎愛生らしいですね。みなみけの吉野は好きだったけど、それ以降はこれといって印象も想い入れもない声優だったりする。ただ、職場の一般人ですら名前と顔を知っているぐらいに有名なので、よく知らない私のほうがおかしいんだろうな。いや、そらおとのカオスとかいい感じだなとは思ってたけど、あの作品はあんまり声優を意識しないからなぁ。というか、ここ最近声優を意識してアニメを観ていない。知らない人も、随分増えた気がする。

私は元々、年上属性というものを持っておらず、先輩とかお姉さんとか、教育実習生や先生といったキャラクターを回避する傾向にあります。まあ、これは単純に好みの問題なんですけど、神のみは録画してましたし、そのとき丁度眠かったから無理して観る必要もないかなと。そこで寝てしまえば話はそれで終わったんだけど、なんとなくチャンネルをカチャカチャと回しまして。このところ、毎週神のみをリアルタイムで観ていたせいか、同じ時間帯にどんな番組がやってるか知らなかったんですよ。もっとも、私はアニメ以外は歴史秘話ヒストリアとワールドビジネスサテライトぐらしか地上波を観ないですから、なにがやっていても大抵はスルーなんですが……あ、sakusakuは別だよ? 昔はこれに刑事ドラマと時代劇が加わったんだけど、今はろくなのやってないからね。スカパーで古いの観てたほうが、よっぽど楽しい。
話がずれましたけど、そうしてチャンネルを回してtvkに合わせたら、アニメがやってたんですよ。神のみの裏ですから深夜も1時半過ぎ、普通に考えれば深夜アニメなんですけど、なんか印象が違うのね。なんていうかこう、子供向けアニメかと最初は思ったんですよ。内容は後述しますけど、全体的にオタク臭さが全くしなくて。近年で子供向けっぽい作品といえばミルキィやイカ娘がありますけど、あれはまだ作品からオタク臭がするじゃないですから。なのに、私が観たそのアニメにはまったくそういうのがなくて、セイントオクトーバーよりも上じゃないかとさえ思った。

私は途中から観たわけだけど、丁度どっかの日本家屋にある茶の間が舞台で、白衣を着た女の子がちょこちょこと現れたんですよ。何故か背中にぜんまいがある少女、髪を結んだことを見せるんですね。すると少女が新鮮だったのか、白衣っ子に「お姉さんっぽいですよ」と褒めて。そしたら白衣っ子、一人称が博士で、少女からもそう呼ばれてたんですが、メチャクチャ喜びましてね。きっと普段は、子供扱いされてるんでしょう。お姉さんと言われたことが嬉しくて、急にそれっぽいことがしたくなってしまった博士。ひとりでにお片付けを始めたり、お洗濯を手伝ったり、果てはお料理までしようとする。言動や背格好から、おそらく10歳児未満だと思うんですけど、その自分でなんでもやろうとする姿が、物凄く愛らしいのよ。
ほとんどやる気余って失敗するってパターンなんだけど、とてもじゃないが怒る気にはなれない。あれはもう、微笑ましいという部類ものですね。魔女宅に出てくるジジみたい猫がお目付け役見たいなんですが、それも結構ポイント高いよね。ぜんまい娘はロボットなのか、猫も上の存在として扱うものの、博士はあくまで猫として扱う。その関係性というか、立場の曖昧さがツボにハマった。個人的には洗濯機のダイヤルを回したくて、半泣きになっているところが超可愛かった。ダイヤル回した後、「ワーイ!」とか言って、洗面所出ていくんだよ? あれはヤバイって。
結局、猫が機転を利かせて博士のお姉さんモードを辞めさせるんだけど、普段は髪を縛ってないらしく、そこが少し残念だった。

今日になって、「こんな子供向けアニメを観た」とTwitterで呟いたら、「いや、それは日常だろう」という指摘を方々から受けた。そういや、同じような絵柄の看板が山手線の駅にあったような……でも、私が利用しているところでは、白衣っ子やぜんまい娘いなかったんだよね。だからまあ気付くのが遅れたというか、神のみの裏番組だから当初から観てなかった。京アニが好きじゃない、というのもあったし。たまに観たアニメで、なかなか面白くて微笑ましいシーンに遭遇し、少し温かい気持ちになりました。
春日野兄妹アンソロジー「ハルカノソラ」(参加者募集中2011年6月19日迄)
URL:http://www.usamimi.info/~mlwhlw/index.html

アンソロ企画の公開をして、まあ、それなりに反響もあったわけですが、さすがに日記の更新をしていなかったせいもあってかアクセス数は落ち始めていますね。この日記に来る人は圧倒的にヨスガノソラで飛んで来る人が多いのですが、それ以外にもブックマーク等から来る人もいるみたいで、こんな日記をお気に入りにしてくれるなんて嬉しい反面、なんだか申し訳なくなりますね。でもブックマークの人にしたところで、大抵はヨスガ関連の人だろうから、ほとんどヨスガ一色の日記と言っても過言はないのかな……

私は5月中ほとんど更新できず、4月にしても似たような感じでした。というか、今年になってまともに全日更新できた月がないほどで、まったく情けない話ですね。別に面倒くさくてサボっていたわけじゃないんですけど、言い訳をすると仕事が忙しかったり、同人誌の原稿が忙しかったり、後はそれ以外の原稿が忙しかったりと、要は他の文章ばっかり書いていたというわけです。一応、これでも物書きですからね。
5月に関してはGWがあったわけですけど、ほぼ毎日のように外出していたから休みらしい休みもなく、当然ながら原稿をやる暇というのがありませんでした。4月のうちにやっておけばよかったんだけど、地震の対応で3月中に済ませるはずだった同人原稿の執筆が送れたり、スケジュールが押し押しになってしまいましたからね。結果的に同人でも仕事でもない、なんと表現していいのか分からない原稿が後回しになってしまったのです。私はその原稿をやることにあまり乗り気ではなかったんですが、恩氏がしきりに勧めてきたということもあって、とりあえず書いてみることに。まあ、文章というか話のストックはいくつか持ってたから、その中から時勢というか時事的なネタを一本チョイスして、実質的な執筆期間は……一週間ぐらいだったかな? それでまあ、300枚ほどの原稿を仕上げました。自分でも馬鹿やったと思うけど、フルパワー状態の執筆速度はまだ落ちていないことが分かったので満足です。

ただ、原稿書いてて気付いたんですが、私も遂に徹夜が出来なくなりましたね。いや、出来ることは出来るんですが何日もぶっ続けてすることが出来ないというか、適度な仮眠程度ではどうにもならないぐらい眠い。多分、本業の仕事を休むことなく夜から朝にかけて原稿を書いていたせいもあるんだろうけど、それにしたって数年前までは屁でもなかったことが、この歳になると堪らなく辛い。私も業界的には若い部類に入るはずなんですけど、段々と夜型の人間じゃいられなくなってるってことなんですかね?
かつて、私が今よりもっと若かった時代、恩氏から「お前はまだ若いから夜型でいられるんだ。俺ぐらいになれば、自然と朝型になる」と言われたことがあります。私はそんな話に対して、いやいや、そんなの体質の問題だろう、私はこれでも夜に強い方ですよなんて返していた記憶がある。元々の趣味に深夜ラジオを聴くというのがあったし、自分が夜型であることに、自負ではないにしろ自信みたいのがあったんだろうね。ちょっとやそっと徹夜したぐらいで倒れるようなことはないと思ってたし。けど、今回の原稿をやるに当たって、気絶するように床で寝ていた自分がいたのを目覚めたことで認識して、その考えも改めなくてはいけないと思った。
私の悪い癖というか、とことん自分を追い詰めないと火が付かないタイプなんですよ。この原稿にしたって話自体は去年のうちから回ってきてたんだけど、「まだ、時間はある」で後回しにして、結局一週間前まで粘ってしまった。そこで初めて火が付いて、一週間という僅かな期間で書き上げることは出来たんですが、知り合いの編集者には「そのやり方は辞めたほうがいい」と、実に当たり前の意見を言われたり。まあ、分かっちゃいるんですけど。

なんとか原稿を5月中に片付けたと思ったら、今度は間髪入れずにコミケに当選してしまい、すぐさまその準備にとりかかることに。だから日記は書いてなかったけど、このところはずっと作業しっぱなしだったんですよね。休む暇もなかったというのは決して嘘じゃないけど、これはあくまで私の都合であって、対外的には言い訳でしかないのかしら。まあ、300枚の原稿が結局どうなるのかとか、書き上げた今となってはどうでも良かったりする。今の私はコミケモードだし、それなりの結果さえ出してくれれば言うことはない。後は、他の人の仕事だし。
まあ、そんなわけで私はこの数ヵ月なにしていたのか日記でした。年寄り臭いことを書いてしまったけど、私はまだ若者でいたいから、若返りの方法でも探すことにします。黒酢とか飲めばいいんですかね? よく分からないけどさ。
皆様、お久しぶりです。5月中は原稿やら仕事やらで手一杯だった私ですが、6月になったので帰ってきました。アクセス解析を見る限り、こんな1ヵ月も更新していなかったような日記に毎日来てくださっていた方が何人もいるようで、まったく申し訳ないです。おかげさまで原稿も無事に完成し、次の作業にとりかかることができそうです。そんなわけで、再開後一回目の日記は告知になります。告知というよりは宣伝で、宣伝というよりは募集になるんですが、以前から温めていた企画をいよいよ始動させることにしました。

春日野兄妹アンソロジー「ハルカノソラ」(仮)
URL:http://www.usamimi.info/~mlwhlw/index.html
企画構想自体はこの日記とか、同人誌の後書きなんかで書いたこともあるから知っている方も結構いるかと思うんですが、ヨスガアンソロを作ります! 前々からやりたいやりたいとは言っていたものの、なかなか切っ掛けというか、踏ん切りみたいのが付かなくて足踏みしていたんですが、今回一つの機会に恵まれまして、制作することを決心致しました。というのも、先日当落の発表があった夏コミことコミックマーケット80にシャリテクロワールが受かりまして、3日目なんですがスペースを頂けることになりました。去年の夏から3連続でサークル参加となり、それだけでもとても光栄なことなんですが、配置場所を調べてみると、どうにもお誕生日席っぽいことが発覚しまして。
お誕生席ってのは、俗にいう島角と同じ意味を持つ同人用語ですね。即売会に参加しない人には分かりにくいと思うんだけど、各島の両端にある机を二脚ほど並べた独立スペースのことで、壁ほどじゃないですが待機列作りをし易いことから、主に中堅サークルが多く配置される場所になっています。で、そんなお誕生日席に何故か大手どころか中堅でもないうちのサークルが配置されまして……通算5回目とはいえ、細々と活動しているような私が何故? と思ったんですが、折角コミケの3日目にこんな良いスペースを頂いたのだから、これはもう今までやったことのないようなことをしないと勿体無いかなと思い、前述の企画をスタートさせるに至りました。
勿論、これだけが理由じゃないんですが、切っ掛けとしては大きかったかなと。こんな機会、もう二度とないかも知れませんし。

ヨスガノソラアンソロ、いえ、ハル×穹アンソロに関する詳細は上記URLからサイトへと飛んで頂ければと思うのですが、一応ここでも参加者募集の告知をした方がいいですかね? ただ、その前に私が今回のアンソロを企画するに至った経緯みたいのを少し書いておきましょうか。こういう踏み込んだ話は、サイトに載せるには適していませんし。
私がヨスガノソラの同人誌を初めて発行したのは一昨年の夏コミで、原作自体は2008年の12月にでていたわけですから、翌年の夏にはもう発行していたということになります。私はヨスガノソラという作品、そしてハルと穹というキャラクターに特別な想い入れがあって、それは言葉にするにも、文章とするにも難しいことです。ただ、好きという言葉を並べたり、大好きだと繰り返すことは簡単だったけど、本当はそんな程度では収まりが付かないぐらい、表現できないぐらいの強い気持ちが、私の中には常にありました。
十数年エロゲをやってきた中で、どうして2年前にぽっと出たヨスガなのか? 名作や傑作は他にも沢山あるのに何故ハルと穹なのか? 色々な人から言われたことですし、私自身、何回も考えてきたことです。前述のようにヨスガと、ハルや穹を好きだという気持ちは当たり前のように持っていて、だけどそれ以上のなにかを、私はこの作品に見出したんだと思います。少なくとも、「この2人のためになにかをしてあげたい」と私が考えたのは、ハルと穹が初めてでした。愛する言葉でさえ、この際、適当かは分からないのですけど、私は自分の中にある表現できない気持ちをなんとか表したくて、今まで同人誌を書いてきたのかも知れません。

私はこれまでヨスガノソラの同人誌を、所謂ハル×穹本を6冊出してきました。そのうち1冊はコピー誌ですけど、HPで公開しているSSも含めれば、自分で言うのもなんですが結構な数を書いてきたんじゃないかと。そして同人活動の中でpixivやTwitterも始めるようになり、そこで自分以外にもヨスガノソラを好きだという人に沢山出会いました。さすがに友人と言うには憚かられますが、それなりに仲良くさせてもらっているし、2年前に比べると随分とヨスガの知り合いも増えたと思います。
同人誌の、サクラノソラの後書きでは、私個人でやられることはやり尽くしたから、だから次は合同誌とかアンソロを作りたいみたいなことを書いたと思いますけど、本当のところは少し違います。いや、勿論、それもあるといえば、あるんですが、本音を言うとヨスガノソラという作品で大掛かりな企画とかを行えるのも、これが最初で最後だと思うんですよ。私はなにせヨスガメインで活動しているサークルですが、ネタさえあれば続けることも出来るんですけど、周りの人はそうもいかないでしょう? 今、ヨスガないしハルや穹を描いている人も、明日になれば違うジャンルに移っているかも知れないし、こういう世界ですし、いつまでも一つの作品で活動するってわけにもいかないですから。
まあ、なんか寂しい話になってしまうんですけど、ヨスガノソラが発売したのも2008年の12月ですし、今年で3年になってしまいます。3年ともなれば結構な月日、いや、年月が経ったことになりますが、その中でヨスガはFDが出て、VFBが発売し、アニメ化もしました。私がやることをやり尽くしたというなら、ヨスガという作品自体もそれは同じだと思うんですよ。ファンの中では2本目のFDという声もありますが、期待はともかく、実現性があまり高いとは言えないでしょう。

そして、予定通りなら今年はSphereの第2弾であるイモウトノカタチが発売されます。私は勿論イモウトノカタチにも期待しているし、絶対買おうと思っている作品ではあるんですけど、それは同時に、ヨスガノソラやハルと穹といったキャラクターが、どんどん過去のものになっていくことを意味します。多分、私はそれが耐えられないというか、寂しいんでしょうね。
だからこそ、イモウトノカタチが出る前に、私はもう一度、ヨスガノソラという作品でなにかをやりたいんだと思います。アンソロというのは私が同人家であるからこそのアプローチになるんですけど、折角ヨスガノソラで同人家や絵描きさんの知り合いも増えましたし、そういった人たちと一緒に記念になるものを作れたらと、そう考えている次第です。夏のコミックマーケットという、大舞台も用意されていることですし。
現在、告知サイトの方ではアンソロジー企画の参加者を募集しています。
漫画、イラスト、小説など幅広い形式での参加が可能ですが、何人かには自分で直接声を掛けようかなと思っています。Twitterで早くも反応してくださった方もいるんですけど、参加表明というまでには至ってませんし、やっぱり自分で言い出したことだから、ある程度は自分で当たってみないとね。まあ、当たって砕けたら怖いのでイマイチ勇気が出なかったんだけど、時間がそんなにあるわけでもないですし、足踏みばかりもしたいられない。だから、決断のときは来たんだと思います。

まあ、なんか重苦しいことばっかり書いてきましたけど、簡単にまとめてしまうとヨスガノソラで記念になるような本を出しませんか? って話なので、そんなに堅苦しく考えられると少し困ってしまいますw 作るからにはいいものをと思ってますけど、人が集まらなければ計画は当然頓挫しますし、先のことはまだ分からないんですけど、要は決意表明みたいなものですね。ヨスガノソラという作品に、イモウトノカタチが一区切りをつければ、私の中の心境も変化するかも知れないし、その前にパーッと一華咲かせとようじゃありませんかと!
これからpixivとか色々なところで告知や宣伝を始めるので、皆様には少しご迷惑をおかけするかも知れませんが、どうか温かく見守ってくだされば幸いです。そして、重ね重ねになりますが、ヨスガノソラ、そしてハルと穹を愛する同人家、絵描き様のアンソロ参加をお待ちしております。
それでは改めまして、ヨスガノソラ同人誌「春日野兄妹」アンソロジーを、よろしくお願い致します!
GWなのに毎日外出している気がする私ですが、この日は東京の郊外に住んでいる恩師の家へと出掛けました。私にとっての物書きの師匠であり、これまでそれなりに作家を輩出してきた色々と凄い人。私は一門の中でも比較的若い弟子になるんだけど、分野がSFだったことから水が合い、今現在でも色々と付き合いがある感じです。作家ではないですがSF畑ではかなりの有名人で、業界生活も数十年とかなり長い。アニメやラノベにも造詣が深く、オタク文化に対する研究や勉強も欠かさないため、師匠という点を差し引いても、私がこれまであった業界人で一番尊敬しています。

そんな恩師が近頃引っ越したことは以前の日記で書いたと思いますが、このところは月一のペースで自宅書庫の整理を手伝っていたりします。弟子の数は多いし、現在までも付き合いのある人は沢山いるけど、手が空いている人間という意味ではそれほどいないし、そもそも本の整理となれば本を知っている人間じゃないといけないからね。恩師に言わせると、私は古典から現代SF、ミステリーやファンタジーに、漫画やラノベを知っている方だから、どの本がなにかというのを見分けてくれるので便利らしい。それは暗に私の趣味が古臭いと言っているだけな気もするが、まあ、そういう需要ってあるよね。自身で職場の本棚が崩壊したときも、私ならどの本がなんのジャンルに属するか判別付くだろうということで、編集部の人間でもないのに片付けをしていたし。別に整理や片付けは嫌いじゃないから良いんだけど、月一のペースだとまだまだ先が見えないね。後何万冊残っているんだろうか。一般的にビブリオマニアは2000冊までなら自分がなにを所有しているか把握できるらしいけど、それを超えてしまうともう訳が分からなくなるそうだ。
私は控えめな人間なので数万冊はおろか数千冊の本も持っていないが、恩師に言わせれば30年もすれば私も同じようになるらしい。にわかには信じがたいが、考えて見れば恩師の蔵書にしても昨日今日買い揃えたわけではない数十年の集大成のようなものだ。私がこのまま何事もなく、順調に本を買い揃えていくなら、同じようなことにならなくはないのかもしれない。元々、私は恩師と似たような性質の持ち主だし、影響もかなり受けた。それを知っているからこそ、向こうは断言することが出来るのだろう。お前はこっち側じゃないと生きていけない人間だとは、かつて私が恩師に言われた言葉である。

そんな恩師は現在も作家志望の若人相手に門扉を開き、作家になるための修行や勉強を教えている。便宜的に学生という言い回しをさせて頂くが、弟子の中でも比較的若い部類になる私でさえ昭和生まれなのに対し、最近の学生は皆が皆平成生まれだ。所謂、ライトノベルレーベルの乱立期に小中高生をやっていた連中であり、世代で言うなら涼宮ハルヒ以降の電撃文庫が猛威を振るっていた辺りだ。私の時代のライトノベルといえば、やはりスレイヤーズシリーズに魔術士オーフェンといった富士見ファンタジア文庫が強く、ロードス島やバセット英雄伝は少し古いといった感じで、後は爆れつハンターかな。神坂一やあかほりさとるが一世を風靡していたときですね。あれから軽く15年以上経っているわけですが、時が過ぎるのは早いというか、今の学生にこれらの作家はまったく通用しないらしい。
遠まわしに言う必要もないのでハッキリ書くけど、今の学生はスレイヤーズという作品を知らないのですよ。ちょっと前にアニメがやってたから、名前だけ知っているという奴が入ればいいほうで、あかほりさとるとか水野良、中村うさぎなんて見たことも聞いたことがないというのがほとんどであり、リウイってなに? ゴクドーくんってどんなの? と、本気で知らない奴ばかりなのだそうです。
まあ、世代が違うのだから当然かも知れないけど、かつての大ヒット作品すら知識にないというのは私とって少なからず衝撃的で、ラノベ分野ですらこれなのだから、所謂一般的なエンターテイメントなどもっと酷いのだろうなと予想がついてしまった。恩師のもとに訪れるのは主にラノベ作家志望の少年少女であり、エンターテイメントや文芸は皆無と言っていい。しかし、どんな世界にもその道を歩いていく上での常識というものがあり、知っていなければいけない知識というものがある。
「夢枕獏を知らないと言われたとき、俺は目の前の学生たちになにを教えられるのか本気で悩んだよ」
恩師がそのように呟いたとき、私は思わず鳥肌が立ってしまった。この日記を読んでいる人で、まさか夢枕獏の名を知らない者はいないと思うが、あの陰陽師シリーズでお馴染みの偉大なる作家を知らないというのだ。陰陽師という存在や、安倍晴明という人物はゲームや漫画で知っているが、その火付け役となった大ヒット作品を欠片も認識していない。恩師でなくとも、目が眩むような話のはずだ。

しかしそれでも、ギリギリ夢枕獏はいいとしよう。陰陽師というものに興味がなければ、あまり縁のない作家かもしれないし、今でも出続けてはいるが、接する機会がなかったという解釈も出来なくはない。けれど、京極夏彦を名前しか知らなかったり、宮部みゆきの名前すら知らないような奴らが、一体なにを学びに来て、なにになろうとしているのだろうかと、私は本気で悩んでしまう。信じられないような話だが、今の学生は大極宮の3人を知らないし、作品など読んだこともないのだ。
じゃあ、彼らはなにを読んでいるのか? どんな物読み、なにを持って作家になりたいと言い張っているのか。ラノベ作家志望なのだからライトノベルを中心に読んでいるというのは、まあ、よしとしよう。愛読書は野性時代と小説すばるみたいな奴がライトノベル作家を目指すというのも……なくはないのかもしれないが、それよりは電撃文庫読んでてラノベ作家を目指してますのほうがまだしっくり来る。
でも、彼らは結局それだけなのだ。今のラノベ作家志望というのは、今現在出ているラノベ以外はなにも読んでいないのだ。彼らにとって本や書籍とは、目下刊行中のラノベのことであって、それ以前というものが存在しない。彼らは今書店に並んでいるような作品や、アニメとして放送されているような人気作については詳しいが、その他に関してはラノベであっても認識していない場合が多く、遡れて3年が限度なのだという。谷川流でさえ、知らない奴は知らないのだ。ラノベの乱立と出版ペースを考えれば、出ている作品を全部把握するなど不可能なのはわかるが、元々狭い視野がさらに狭まり、読書量にしても大したことはない。そもそも、それがまっとうな読書なのかどうかも私には判断不能だった。

西尾維新や入間人間を信奉することが悪いことだと言いたいのではない。その時代のトレンドや、人気作家の存在は否定されるべきではないし、私には理解出来ないが弓弦イズルみたいのが好きだという奴だって大勢いるだろう。でも、それを読んだだけで読書をしたつもりになって、作家になろうとする性根が気に入らない。いや、気にくわない。
私はファンタジーを書きたいのなら、まずは指輪やゲド、ナルニアに触れてみろと言われた世代だ。あの神坂一だって世界の神話や伝奇、魔術や占星術などの研究を重ねた上で、初めてスレイヤーズを書くことが出来たのに、ただラノベだけを読んで作家になろう、なれると信じることだけはやめて欲しい。
別に田中芳樹や山田正紀を読めと言いたいわけじゃない。けど、個々人の好みはともかく、読めばそれらの作品だって面白いはずなのだ。名作は古い作品だからそう呼ばれるのではなく、現代でも通用するだけの話だからこそ、今も尚出版され続けているのだから。夏への扉とか、いい例ではないか。
100冊のラノベを読めば1冊のラノベが書けるようにはなるかもしれない。でも、それで作家になることは不可能だ。翻訳物を毛嫌いし、エンターテイメントに目を向けず、文学なんて知りもしない。学ぶというのは、自主的な行動だ。特に物書きの勉強など、誰かに強制されるものでもないのだから、如何に自分から歩み寄り、見聞を広めるかだろう。狭い世界に閉じこもって、限られたものを読んで極めた気になっているようでは、何時まで経っても井の中の蛙だ。好きなラノベ以外に使う金がないといのなら図書館に行けばいいし、工夫次第で如何様にも読書幅というのは広げることが出来るはずだ。それをしようともせず、ラノベは文学だとか高尚なものだとか、立派な書物で読書足りうるといった自己満足だけはしてはいけない。あれはジュニアノベルの類であって、読者層は小中高生だ。いつまでもしがみついていられるわけ、ないではないか。そんなくだらない悦に浸った行為は今すぐ辞めて、固定概念を振り払って本を読むべきだ。アニメ風ないしエロゲ風の絵が付いていない本以外は読めませんなどと言っているような奴は、絶対に作家になどなれはしないのだから。

私は同世代より感性が古い人間だったから、子供の頃は赤川次郎やSF御三家の本などを読み、そこから田中芳樹などにハマっていった口である。修行時代は一人だけ考え方や作風、読んでいる本が古く、周りの人間からは不思議がられたものだ。そんな私だからこそ、今現在の流れに対する違和感や、不満のようなものを覚えてしまうのかもしれない。あるいはそれは時代に取り残された者の懐古なのかもしれないが、せめて夢枕獏ぐらいは知っていて欲しかったというのが、私の偽りない本音なのである。
ユースティア日記を一時中断して、今日はYui Makino Concert~So Happy~へと参加してきました。私が参加する牧野由依コンサートとしては今年初であり、最後に生で観たのは昨年のクリスマスコンサートかな? 私は既に声優オタクやイベンターとしてセミリタイヤ気味なので、細々としたイベント等にはあまり参加しなくなってしまったのですが、牧野由依のコンサートだけはなるべく行くようにしています。もっとも、今回は初日の方に別の予定が入ってしまったため、2日目のみの参加だったんですけどね。

会場となる日本橋三井ホールは、JR新日本橋駅や東京メトロの三越前駅から近い、日本橋一丁目ビルディングに存在するイベント会場です。主に金融街として知られる日本橋ですが、同時に銀座と並ぶ百貨店の街でもあり、三越や高島屋などの老舗が多く立ち並ぶことでも有名ですよね。いずれにせよオタクには縁のない街であり、私みたいに百貨店好きでもなければ興味もないような場所なんだろうけど、超高層ビルの中でイベントというのは結構久しぶりな気もするし、牧野由依だと初めてなんじゃないかな?
私は現地で迷う可能性も考慮して余裕を持って出掛けたから、開場の20分ぐらい前に現地に到着し、悠々と中に入ることが出来ました。日本橋三井ホール自体は初めて行く会場だったんだけど、近年は声優イベントが少なからず開催されていることもあって、割とメジャーになりつつある場所らしい。ホールと銘打っている割にドリンク代を取られ、会場外のカウンターで交換する辺りはライブハウスを思わせるシステムになっていたけど、会場内はそれほどでもなかった。音響設備はさすがに新しい会場だけあって良い物を使っているんだろうけど、構造上の問題かあんまり音が響かないんだよね。基本的にライブやコンサート中心で、芝居等が上演されることはないみたいなんだけど、コンサート会場としてはやや難があったかもしれない。まあ、新しいホールだから比較的綺麗であることを考えれば、少々の問題など気にならなくはなるのだけど、それを踏まえて考えると平凡なところだったかなと。似ている会場で言えば、大昔に行ったアサヒ・アートスクエアが近いかもしれない。あの、浅草にあるスーパードライホールにある奴ね。金色のオブジェで有名な。随分前の話だから、あるいは錯覚もしれないけど。

コンサートの話をすると、牧野由依コンサートとしては初めて立つ機会がありました。前日はやらなかったそうですが、コーラスから2曲ほど振付みたいなものを提示され、みんなも一緒にやってくださいって感じで。まあ、昔からコーラスというのはいい意味でも悪い意味でも雰囲気を壊すとは我が知り合いの意見ですけど、私もそれには同意してしまうかも。牧野由依自身は、自分のコンサートで客を立たせたことに思うところがあるようで、「座って見れるのがいいところだったのにとか思ってるんでしょ」みたいな、少々やさぐれた発言をしていました。コーナーが終わるとすぐに座るように諭したり、かなり気を使っていたように思える。もっとも、声オタのイベンターなんてのは、立って騒いで飛び上がってというのが何事においても基本であり、楽しみ方として絶対的に正しいと勘違いしているから、なかなか座ろうとはしませんでしたけど。なんですかね? 牧野由依もそういった一体感や盛り上がりに憧れでもあったんでしょうか。別にそれ自体は非難されることもでもないし、本人が言うほど自虐的になることもないと思うけど、これから先オールスタンディングが当たり前みたいな流れになると、さすがに困るかもしれない。
というか、私は立つことよりも振付の方に否定的なんですよ。う・ふ・ふ・ふの方はまだ良いとして、ふわふわ♪はなんか違うんじゃないかなって。曲だけ聴くと確かにアップテンポかもしれないけど、あれって歌詞が割と消極的な内容で、実は明るくないんですよね。だから明るく楽しく振り付けをっていう流れに、違和感を覚えてしまって。選曲が違うんじゃないかなと。

スケッチブックを持ったままも聴けましたし、イレギュラーはありましたけど、個人的には十分満足の行くコンサートでした。次は8月にSHIBUYA-AXで開催されるみたいですが、ライブハウスは久しぶりですね。平日の18時半に渋谷は少しきつい気がするんだけど、まあ、なんとか都合をつけてみようかと思います。その前に、アニメイト横浜でのイベントがありますけど。
私が第3章をプレイしていたとき、聖女イレーヌことコレットの意外な魅力に打ちのめされ、「どうしてゲマ屋で予約をしなかったんだ!」と悔やんだことがあります。ゲマ屋の特典はコレットの描き下ろしテレカであり、しかも、ほぼ全裸に近い絵柄ということもあって、購入前には少なからず悩んだのですが……第4章にはいったら、それがただの杞憂でしかないことを思い知らされました。敢えて言おう、メロンブックスでテレカ付きを購入した私は勝ち組であると。

ユースティア日記第4回目は、物語上最後に登場するヒロインであるリシアシナリオになります。私はそもそも金髪ツインテールの娘というか、金髪娘にそれほど興味がなくて、メロンブックスで買ったのも単純にいつも買っている店だからであって、特典がどうとかそういう理由ではありませんでした。それでなくともリシアは体験版における出番が最も少ないキャラで、主人公のカイムとも絡むことがないから、とにかく印象が薄いし、外見や容姿が好みというわけでもないので、プレイは前は数いるヒロインの一人程度の認識でしかなかった。現に4章入るまでは、コレットの株が上がりまくっていましたからね。
元々、私はべっかんこうの絵が大好きというわけでもなかったし、それでいて金髪娘に興味がないのだから、考えて見れば事前にリシアを好きになる理由は殆ど無かったのかもしれない。エロゲ雑誌とかを読んでいればまた違ったのかもしれないけど、私みたいにネットと体験版のみでしか情報収集していない人にとっては、リシアはまさしく未知のヒロインであったことでしょう。私自身、リシアに対してはやっと出てきたかという気持ちはあったけど、待ってましたという気分でもなく、どちらかと言えばメインヒロインにして最終章であるティアルートへの繋ぎぐらいにしか考えていなかったと思う。それぐらい、印象が薄かった。
けれど、いざプレイしてみるとそんな事前評価や前評判なんてあっさりとひっくり返された。オーガストやべっかんこうが好きでもない私がこのエロゲを買ったのは、リシアに会うため、いや、リシア・ド・ノーヴァス・ユーリィ女王陛下に忠誠を誓うためだったのだと確信を抱くほどに、素晴らしいヒロインとシナリオがそこにはあった。

リシアルートの舞台は、基本的に彼女が住まう王城になります。それまでのヒロインは何らかの形で牢獄に降りてきており、そこでカイムと出会うことがほとんでした。あの聖女イレーヌでさえ馬車に乗って自ら牢獄までやってきたほどですが、リシアだけは例外であり、彼女は生まれて以来王城や上層から出たことがなく、下層にすら行ったことがないのではないかと思わせる、本物の箱入り娘でした。
性格は至って素直で、ユースティアの登場キャラにしては珍しいことに裏表がなく、抱え込んでいる嘘の類が存在しません。自分に都合の良い思い込みを一つしているぐらいで、その内容にしても大したものではないから、登場時に悪印象というものを抱きにくいんですね。カイムとリシアが出会ったのは王城で、彼女が召使の真似事をして洗濯物を干していたときですが、いたずらを働いていたとう言うのならまだしも、ただ仕事をしていただけですし、古臭言い方をすれば少々お転婆な面が見られるぐらいで、後暗いところは何一つありません。
そんなリシアと出会ったカイムは相手の正体に気付かぬまま、召使と勘違いして砕けた態度、つまりは普段どおりの対応をしてしまいます。聖女にすらタメ口を聞いていたほどですし、王城の人間とは言え召使程度には気を使う必要もないと判断したのでしょう。リシアは敢えて相手の無礼や間違いを訂正しようとはせず、牢獄出身であるというカイムの話を聞きたがります。この時点で、リシアはそれまでのヒロインとは違う、牢獄とは欠片も縁のない人間であることが分かる。
広間において、王女としてのリシアと再会するカイムですが、今度は打って変わって腰の低い態度で平謝りをします。いくら貴族であるルキウスの補佐官になったとは言え、その礼儀の良さには少々の違和感を覚えた。カイムは牢獄の支配階級の下で殺し屋をやっていたわけですから、ある程度の礼儀作法を弁えていても別に不思議はないのですが、それにしたってあっさり王城内へ溶け込んでいるのはおかしい気がする。割とまともな生活が出来ていたとは言え、元は牢獄の荒くれ者なのですから、招待された大聖堂や聖域ならまだしも、王城でも難なく行動できるというのはさすがにどうかと……万能なのはエロゲ主人公の特権だけどさ。

導入部だけで結構な長さとなってしまったので、リシアルートに関してはおまけを含めて後二回ほど書こうと思います。書くことが沢山あるのもそうだけど、じっくりと振り返っていきたいというか、他のヒロインに比べると分かりやすい話しながらも濃密な内容なんですよね。話しの濃さで言えばエリスもそれなりだったけど、壮大さという意味ではやはりリシアが一番だと思う。何故、リシアルートは素晴らしいのかも含めて、明日から書き進めていことにします。
ユースティア日記再開ということで、3回目は聖女イレーヌのルートになります。所謂牢獄編が終了し、一気に上層編となる第3章ですが、通行証一枚で上まで行けてしまう辺り、なんとも呆気無い気がしますね。聖女に招待されたティアとカイムはまだしも、エリスなんかも気軽に大聖堂まで来られる辺り、どうなっているんだって感じです。特にエリスは後のシナリオで王城の中に入ったり、上層までフラリと現れることがあるから、牢獄とか言っても案外出入りは自由なんじゃないかと思えてしまう。考えて見れば第1章でフィオネの家に行ったときも、楽々と下層まで行って拍子抜けした覚えがある。もっとこう、勝手に抜けだしたら斬首刑ぐらいの厳しい場所って想像をしていたから。

イレーヌルートと言いつつ、実際は彼女とそのお付きであるラヴィのシナリオになっています。メインはあくまでイレーヌですが、流れによってはラヴィの方を攻略することになり、むしろ彼女のルートなのではないかと思わせるシーンも度々ある。そう考えるとラヴィがパッケージにいないのはおかしいような気もするけど、まあ、立ち位置としてはおまけ程度なのだろうか。ラヴィはイレーヌ以上に体験版で出番があり、カイムとの絡みもありましたからある程度のキャラクターは事前につかむことが出来ます。印象としては体験版のときに受けたものと大差なく、いい意味で代わり映えないキャラですね。
一方、イレーヌは後に出てくるリシアほどではないにせよ出番の少ないキャラで、本格的に絡むのは本編からとなっています。見た目は気弱でか弱い聖女様って感じなんですけど、実際に会って話すとまったく違う印象を受けます。一言で言えば高位聖職者を絵に書いたような感じで、自身の信仰を絶対のものとして、それに理解を示さない相手は平気で見下すような人物です。要は、居丈高なんですね。時折人を小馬鹿にしたような、「なに言ってんだ、こいつ?」みたいな表情をするんだけど、個人的にはそこがイレーヌの魅力だったように思う。プレイ前はもうちょっと従順な、信仰に敬虔な無垢なる少女を予想していましたが、そういった要素はラヴィの方に求めるべきみたいね。二人で一人というわけではないけど、お互いに足りない部分を補い合う、そんな関係なんでしょう。まあ、好みは分かれそうなシナリオであり、ヒロインだけど、当初の予想を裏切られたからと言って、私は別に嫌いになったりはしませんでした。この時点では。

このシナリオの特徴としては、登場人物の誰しもがを付いていることです。それは他人に対してでも、自分に対してでも同じことで、例えば29代聖女イレーヌ、イレーヌは継承名に過ぎませんから、本名はコレットというらしいですが、彼女なんてもう存在自体が嘘っぱちみたいなものですからね。でも、考えて見れば、聖女が血縁等による世襲制でない時点で、気付くべきだったのかも知れない。ユースティアは一見するとファンタジーな世界ですけど、羽付きとかそういう身体的現象や、都市が浮いているという事実を除けば、特に魔法等が出てくるわけでもない、至って平凡な中世的世界観になっています。羽付きは病気と言うことになっているからともかくとして、この世界で唯一聖女だけが、祈りの力で都市を浮かせるという、不思議パワーを発揮しているわけなんですよ。カイムは昔からの言い伝え、神話や伝説のたぐいであると言っていましたが、少しおかしいと思いませんか? 聖女が世襲制で、その血縁によって引き継がれるというのなら、その理屈も分からなくはありません。聖女の一族にだけ、そうした不思議パワーが受け継がれてきたで済みますから。でも、29代イレーヌであるコレットは、元々は教会外部の人間であり、28代目を尊敬こそしていましたが、血縁があるわけではありません。ましてや、29代目を選出する際、最初はラヴィの方に話が来たというほどですし、場合によっては彼女が聖女となって都市を浮かせていたかも知れないのです。そんな馬鹿な、おかしな話はないでしょう。その理屈なら、信仰心の高い女声ならば誰でも聖女となって、祈りの力で都市を浮かせることが出来ることになってしまう。
そういう世界なのだ、という事実でカイムは納得していたようですが、今代の聖女であるコレットは違いました。彼女はとある理由から、聖女という者の真実を知ってしまったのです。だからこそ、彼女は自らの信仰、つまり天使信奉を貫くことが出来た。教会内ではさも、都市を浮かせる聖女を演じながら。

ラヴィもまた、重大な嘘を抱えて生きている少女です。彼女は自分が聖女の役目を断った理由にコレットを上げ、ある意味では自分より信仰心の厚い彼女に役目を押し付けてしまったと語っていますが、それは真っ赤な嘘です。勿論、そうした罪悪感がなかったとは言いませんが、彼女の場合はどうしたって聖女になどなれなかった。その理由は、主に彼女の背中にあります。イレーヌが執り行う儀式には全裸で行う沐浴があり、ラヴィには絶対に不可能なことだったのです。
コレットとラヴィのシナリオは友情の復活が一つのテーマみたいなものですけど、その逆に友情の崩壊も描いています。真実の一端を知ってしまったカイムと、それを知りうる立場にはなかったジーク。カイムが上層に上がった時点で、二人の関係には大きな差が生まれることになった。これまでジークは不蝕金鎖の頭であり、友人とはいえカイムを雇う側の人間であった。対等に見えて、実はそうじゃなかったんです。けれど、カイムが上層に行って、聖女イレーヌの元で様々なことを見聞きした結果、もはや二人は同じ認識や意識を共有することが出来なくなっていた。カイムは情報量において、牢獄の王を上回ってしまったから。
カイムがあくまでコレットとラヴィの言い分を信じるなら、そのまま二人のルートになります。途中、コレットを抱くか抱かないかで微妙に展開がラヴィよりになったりするけど、それはまあ良いとして、カイムはコレットルートにおいて、馬鹿げているとは思うが一緒にいる内にそっち側の人間になってしまったと述懐しています。彼は、自分がすでに牢獄と考えを同調させることが出来ないことを悟っていたのです。再び崩落が起き、メルトという初恋の女性が死んだにも関わらず、彼は牢獄の気持ちを代弁することが出来なかった。だから、ジークと決裂するしかなかった。
これはコレットルートに進まなくても言えることで、既に真実の階段を登り始めてしまったカイムと、牢獄という最下層で王を続けているジークでは、歩調を合わせることは不可能なんですよ。カイムは身軽だった。彼はであるが故に、止まることが出来なかったから。

世界の真実に近づいたカイムは、上層にてルキウス卿と協力しあうことで、更なる確信を得ようとする。舞台は聖域から王城へと変わり、最後のヒロインがカイムの前へと姿を表すのですが、その話はまた明日ということで。この作品で一番好きなヒロインの話になるので、ちょっと長くなるとかと思いますが、なるべく早いうちに書き上げてしまおうかと思います。
エリスルートの話を書く前に、アンケートハガキにもあったお気に入りのキャラクターに付いて少し語ってみましょうか。エロゲの付属ハガキに好きなキャラ等を書く欄があるのは珍しいことでもなんでもないんですが、ユースティアは面白いことにプレイ前とプレイ後で選ぶようになっていた。体験版ないし、各種雑誌の情報から受ける印象と、ゲーム本体を遊び終わってからの印象でどこまで違うのか。言われてみれば、体験版はイレーヌやリシアがほとんど出ませんし、外見が好きだというならまだしも、中身も含めて好きだとは言いがたいののかもしれません。その点、ティアとかエリス、それにフィオネは有利ですよね。

さて、そんなエリスルートですが、意外にも牢獄編は彼女のシナリオで最後となります。つまり、牢獄という空間が舞台になるのはここまでというわけで、そのためヒロインのエリス以外にも不蝕金鎖の頭であるジークなども密接に絡んできて、謂わばカイムとその友人たちの過去を含めた物語展開となった。過去の精算という意味では、カイムにしろジークにしろ同じことで、それが身請けした女と異母兄の違いがあるぐらいか。どちらも何とかしなければいけないと分かっていながら、様々な負い目から後回しにしてしまい、泥沼とになってしまった。自業自得と言ってしまえばそれまでだけど、悩ましい問題であったことには違いない。
エリスの抱えている問題は、ヒロインという枠組みで考えると、本来ならあってはならないようなものです。体験版だけの印象で彼女を語れば、主人公と古馴染みであり、彼に身請けされたことで惚れ込んだ幼なじみタイプのヒロインということになるでしょう。数年来の付き合いだからこそ、新しい女に対して嫉妬を覚えずにはいられない。ティアは勿論のこと、フィオネなど仕事関係の女にも嫉心を向ける。つまりは酷いヤキモチやきなのだと、普通はそのように思うはずです。幼なじみタイプとしてはありがちだし、そこから考えられるシナリオは今まで有耶無耶にしてきた関係性の成立か精算、今の流行りならエリスがヤンデレと化すみたいな、そんな感じがベタでしょうか? でも、実際に展開された話はヤンデレなど通り越した、もっと重たくて根の深いものだった。

ハッキリ書くと、エリスという女は壊れています。後に出てくる聖女ほど頭が逝っているわけではないですが、そもそも自らを人ではなく人形であると定義している彼女にとって、カイムは恋愛感情から執着する相手ではありませんでした。ジークやメルトは、あくまでエリスはカイムに惚れていることを前提にしており、当のカイム本人ですら、その通りであると思っていた。けれどそれは大きな間違いで、エリスがカイムに求めていたものは彼らが想像もしないものだった。世の中には男に縛られたい女もいると言うけど、エリスはその究極かもしれない。彼女には主体性というものがないのだ。結局、エリスが医者というか人間をやっているのは、カイムがそう命じたからに過ぎなくて、その意味で彼女は正しくお人形さんだった。いや、そういう単語が存在しないだけで、ロボットと表現したほうが分かりやすいかもしれない。多少の自主性はあっても、主が命令を行わない限り具体的な行動を起こそうとはしない、エリスはそういうロボットなのだ。
命令をしてくれる相手ならカイムでなくても構わないというのは、強りがりでもなんでもなくエリスの本音であったことでしょう。彼女の生い立ちがどういうものか、具体的には語られていないし、決して良いものでなかったのは見て取るように分かる。カイムの間違いは、出会った当初の印象を完全に拭いきれていたと思っていたことであり、ティアやフィオネといったカイムに近しい女性の出現でエリスが変わったことを、嫉妬の類と先入観で決めつけていたことにある。
カイムのとった選択は、決して間違いではない。その考えも、彼の立場からすれば当然のことだったろう。フィオネのときもそうなのだが、カイムがヒロインと結ばれるには相手の弱さや痛みを受け入れ、自らも背負うことで初めて成立するのだ。つまり、そうしないということはヒロインの成長を諭し、独り立ちさせるということである。だからこそ、ルートに入らず進んだ場合のヒロインは主人公に対して覚め気味であり、言ってしまえばカイムは各々のヒロインを見捨てたことになるのだ。エリスはまだしもいい具合に成長できたけど、フィオネなどは蟠りが残ってしまった。嫌わせる必要まであったのかとは、思わなくもない。

このシナリオの見所は、エリスというよりはジークとベルナドの方だろう。ただ、カイムにしろジークにしろ、「牢獄なら~」という表現を多用し過ぎるような気もする。誰に対しても同じことばかり言って、まるで言い訳のように聞こえる。ベルナドが本当に不幸で、ジークが幸福なのかといえば、異論を挟む余地はいくらでもありそうだけど、ジークはもう少し上手くやるべきだったと思うね。結果論で言えば彼は勝ったけど、カイムがそうであったように、それは泥臭い勝利だった。それほど嫌いなシナリオではなかったけど、これといって好きになる理由もない、そんな話でした。

< 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 >